ケネス・バーク『歴史への姿勢』 85

 こうしたことすべてに絡み合っているのは、『歴史への姿勢』で「想像的なものの官僚化」と呼ばれた物語である。この用語は多様な混乱した発展に適用され、そこにはごく特殊で個人的な姿勢も含まれる。しかし、常に繰り返される物語は、テクノロジーの道具的な特質(その資本主義的な側面と絡み合った)が、私が青白く喜劇的な用語である「官僚化」に対する個人的な遠近法のうちに含めた人間関係やその説明と同一視されるというものである。

 

 近代のテクノロジーの影響は十八世紀の終わりから危機的な方向を辿り、緊急にして重大な局面を示し始めているという一般的な考えに則り、私は、人工的な「対抗自然」と呼びたいと思っているテクノロジーのますます早まっていく「達成」に結びついた「横断的価値」(「新たな姿勢」)に対する反応の最も徹底的な例(「モデル」とさえ言える)としてニーチェの姿勢を「特別なもの」として提示した。そして私は、ニーチェがテクノロジーの道具の超人格的な特質を再人格化した際のむらのあるスタイルもそれに加えた(このひねりは、恐らく、テクノロジーの革新や発展が人間の産物であるという事実において、当初から内包されていた)。

 

 あらゆる有機体は、摂取すると生存していくことができないもの除いたなんらかの摂取を環境から「望んでいる」(得る<必要が>ある)という意味で、「姿勢」をもっている。こうした諸条件は必然的な「諸姿勢」を形づくる(ある方向に向ったり離れたりする趨勢を伴った「遠近法」)。しかし、こうした「備え付けの」遠近法は言葉を欠いており、それゆえ物語がなく、その限りにおいて、受容と拒絶を含んだ様態はまったく我々人間に特有なものである。

 

 我々の遠近法には、「二回以上繰り返される話」は無数にあり、それが私が「物語」として示した「想像的なものの官僚化」である。とりあえずの要約として、ニーチェの「あらゆる価値の再評価」という「根源的な」定式に従い、「姿勢」を「価値」と同義語と見なすと、文化的問題はどのように見られるかを問うてみよう。まず、あらゆる人間の姿勢は包括的な二重の起源をもっていることに留意しよう。言語の本性に従い、本質的な二重の形式が生じる。そして、我々がいまあるような生物である限り、それは常に我々につきまとい、我々の運命に決定的な影響を与えるだろう。私が言っているのは、我々の太古の先祖が、言語を学び、もはやある感覚を単に感覚として経験できなくなったときに生じる二重化である。例えば、何か<熱いと感じられる>ものに触れたとき、言語とともに新たに見いだされた方法に従えば、<感覚的な>経験を<非感覚的な>媒体によって「超越」し、<二重化>し、我が太古の先祖は「<これは熱い>」と言える。

 

 そして、まさしくそのときその場所で<物語>が世界のなかに入ってきた。オレンジの味は<一つの感覚である>。「オレンジの味」という言葉は<物語を語っている>。そして、語られる物語は、聞き手がオレンジを味わったことがあるかないかによって、幾分異なった物語となるに違いない。一度そうした言葉が<感覚>に対して生じると、その使用は「これは暖かい」といったものから「彼、或いは彼女は温かい心をもっている」といった<個人的見解を示す>段階にまで拡張されうる。

 

 ベンサムはこうしたアナロジーによる拡張を「虚構」と呼んだが、心理学や倫理の分野で、もしすべての用語が「物理学」に属する起源にまで語源的に辿れるなら、議論の生じる余地などあり得ないとも主張している。(関連したことは多くの場所で述べたが、なかでも「(非象徴的)運動・(象徴的)行動」(『クリティカル・インクワリー』1978年夏号)を参照。)また、「物理学」の用語に<還元できない>コミュニケーション(ベンサムも決して還元しようとはしていないと思われる)で言葉の「意味」がどう変わろうと、そうした言葉は語り手によってつくりだされることはあり得ないし、語り手(或いは作家)と聞き手(或いは読み手)それぞれの身体の<内部>とその<間>に<文>(つまり、その「目的」とする<種類>を示す<形式>として)として結実させるための複雑で、「無限に多様な」※<言葉を欠いた>生理的運動なしに、宙を伝わって聞き手に送られることも、読者の前のページに置かれることもあり得ない。

 

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*1:マックス・ウェーバーの言葉で、言葉を欠いた運動の領域とは異なり、状況は無数の細部によりそれぞれに唯一無比のものだという事実をあらわしている。私の考えによれば、同じ言葉を<同一視はできないが、類似した>状況に当てはめることができることによってのみ我々は言語を学ぶことができるのだが、どこでかはわからないがT・S・エリオットは同じことを「各事例は唯一無比で、互いに似ている」と定式として完成させている。