ケネス・バーク『歴史への姿勢』 89

 事態を極端にすることでプロットを動機づける劇中の登場人物については、私は多くのことを語ってきた。『歴史への姿勢』の「中枢用語の辞書」でなされたと<私が>考えていることを示せば充分だろう。私はそれを「受容の喜劇的枠組み」を体現した人間関係の<喜劇>を描いたものだと考え、「想像的なものの官僚化」による調節不良は我々人間の弱点を前面に出し、比率や「組み替え」を変更する歴史的発展(時間における変化)を誘発するのに役立つのである。だが、この不調和による遠近法そのものは、特殊な歴史的露頭を示すものではなく、シンボルを使用する動物としての我々に特殊な種的本性に固有なものであり、私が後に「エンテレヒー」の原理と呼ぶことになる固有な刺激であり、シンボルに導かれることで最終的な場にまで意味を追い詰め、断片的な過剰の道を進み、悲劇の自ら犠牲となることを選択する恐ろしい崇高さにまで達するのである。

 

 私の「用語辞典」は、世界がこれまでもったなかでももっとも偉大な市民の多くを有する偉大なる国家が気が狂い、我々すべてがあらゆる方面からそうした刺激を受け、もっとも瑣末な相互関係からでさえ、物々交換や、単なる商売、あるものの代わりにあるものを与える(「犠牲にする」)悲劇的犠牲を生じさせるような時期であったので、できるだけ柔らかなものにしようと試みることも困難だった。

 

 後に、「『摂理』の諸相」(『ノートルダム・イングリッシュ・ジャーナル』1981年夏号)と題された論文で、私は問題を次のように要約した。

 

 ロゴロジーは、堂々たる呼ばれかたをしている正史と、ある種の不十分さが原因で過剰になっている歴史主義との間にねたましさの関係があると提案しなければならないだろう。歴史主義は歴史を書くことでは満足しない。更に先へ行き、我々はたまたま生まれ落ちた(或はハイデガーが言うように「投げだされた」)個々の時代の産物<でしかない>。他方、ロゴロジーは我々人間に特殊な種的定義から出発する。我々が歴史的あらわれになるその「基質」とはなんだろうか。

 

 

 ミルズの『社会学的想像力』の補遺の「知的職人気質について」でも同じ立場がとられている。「常に人間のイメージに眼を向け続けよう――人間の性質の種的な部分に――・・・そしてまた歴史のイメージに――いかに歴史が作られるかに」(225ページ)。そして、『アメリカン・ジャーナル・オブ・ソシオロジー』の1982年7月号では、『恒久性と変化』のときには編集者のルイ・ワースによる書評がでて、さほど手応えを感じさせてくれなかったものだが、今回のエッセイでは、『宗教の修辞学』が「ほぼ完全に構造主義者、フォルマリストとして言語を扱っており」、『恒久性と変化』や『動機の文法』のような「初期のより社会学的な著作」と比較されている。私の考察の多くの部分を無視して、この記事は「圧倒的な社会学的底流」だけを引きだし、私の象徴的行動としての言語の劇学理論は「社会経済的なものと弁証法的な相互関係を行なう象徴」を扱うものだとしている。それは「ケネス・バークにおける知識、意味、社会的不平等」と題されたもので、パプア・ニューギニア大学で人類学を教えているジェイムズ・G・カリエールによるものである。しかし、彼は私の著作や論文の多くに言及しているが、『歴史への姿勢』はあげられてもいない。長い間絶版だったので、見ていないのかもしれない。手紙を書いてこの本を知っているかどうか尋ね、もし知っているなら、ライマンのような読み方ができるかどうか聞いてみようと思う。

 

 実際には、たとえ『歴史への姿勢』がライマンが信じるように、その考え方においてぶしつけなまでに非歴史的だとしても、私が「形式的に」つけ加えた「終末論的」次元によってある種の修正がなされているように思われる。いまこの問題を見てみると、マルクス主義の終末論も私のロゴロジカルな終末論もテクノロジーに主要な役割を割り当てている。エンゲルスの文章の「労働」を「テクノロジー」に置き換えると、我々はともに『象徴的行動としての言語』に収められた「人間の定義」の第三箇条、「自らつくりだした道具によって自然な状態から切り離された」という点で共通する。次の条項の、「位階の精神に刺激され」という箇所は階級闘争の歴史を含んでいるが、私の『動機の修辞学』では、支配階級と同一化した権威シンボルは弁証法においてより興味深いものであり、支配階級は社会構造全体の論理と一致し、広く行きわたった思考スタイルの裏づけを得ることで「ごく自然に」特権をもつ身分になることが示されている。本質的にマルクス主義的な由来を見て取るにはこれだけ言えば十分だろう。

 

 二つの終末論に相異が産まれるのは、マルクス主義が社会的な大変動とテクノロジーの発達の切り離せない関係のなかに階級闘争の側面を描きだす部分にあり、私の考え方であるロゴロジー的な終末論では、それはテクノロジーそのものの運命なのである。社会と道具の二重性があるというマルクス主義的観点によると、紛糾を<社会的な>側面から捉え、文化的な分裂を解決することは、社会問題の終結を意味するだろう。しかし、この状況をロゴロジーの観点で見ると、いかなる政治体制も、テクノロジーの<道具的な>力の適切な支配を、紙の上ですら描きだしたことはない。議論のために、(「来る革命」)によって、階級のないユートピア社会が理想から現実になったとしても、シンボルに導かれたテクノロジー的邁進の「創造性」によって「累進的に」発達する対抗自然の領域に固有の<道具の>問題は増え続けることだろう。

 

 しかし待て。言葉の「創造性」はここにより根源的にあらわれている。(『ルイ・H・モルガンの調査のもと明らかにされた家族、私有財産と国家の起源』エレノア・バーク・リーコックによる序と注釈、インターナショナル・パブリッシャー版の補遺「猿から人間へと移行した際に労働の果した役割」を参照のこと。)260-61ページを見れば、エンゲルスが説明しているように、我々の祖先の原始的な文化の状況というのは、明らかにその人類学的な先祖とは異なっていた。ロゴロジーは、道具の使用と会話とが互いの発達に寄与し、基本的な弁証法的関係を認めることにおいて、エンゲルスマルクス主義に同意するだろう。マルクス主義弁証法唯物論ではまず経済に力点が置かれ、会話と「労働」の相互関係では主要な動機づけとして道具的な要素の方が好まれる。ロゴロジーは、その特有の遠近法によって、どちらが「第一」のものであるか仮定する必要のない<コミュニケーション>を強調する。我々が守るべきなのは、注意と会話がコミュニケーションの様々なあり方を可能にし、それなしでは現在高度なテクノロジーにおいて「花開いている」技術的革新が(そしてそれは、「労働」を古風な形での仕事をから解放するものだが)発達することはあり得なかった。<言語>はシンボルによって導かれた資源を発明し、修正し、累積する会計学、及び家計学を「道具として用いる」ための手段をも可能にする。

 

 ついでに述べておけば、鍵となる用語としてロゴロジーは「テクノロジー」を選択し、マルクス主義が「労働」を選択することには、道徳的な意味合いが含まれており(所謂プロテスタント倫理)に近い)、「テクノロジー」の厳密に<道具主義的な>意味合いは「自然な共鳴を引き起こす」ことがないことにある。しかし、我々がとりわけ読者の注意を引きたいと思うのは、この抜粋がのせられた二ページの間で殆ど「魔術的」と言ってもいい変化が生じていることである。

 

 第一にこうある。「あらゆる動物のあらゆる計画された行動は、決して地上に彼らの意志を刻みつけることに成功しないだろう。・・・動物は単にその環境を<使用し>、自らの存在によって変化をもたらす。人間は目的のために環境を変化させ、それを<支配する>。それが人間と他の動物との最終的で本質的な相異であり、再び言うが、この相異をもたらすのは労働である。」そして、現代のテクノロジーが考え始めた「環境に与える影響」についての警告が発せられる。「しかしながら、我々人間の自然に対する勝利をあまり自慢しないようにしよう。というのも、それぞれの勝利において、自然は我々に復讐しているのであるから」、森林伐採が河川の氾濫の原因となるように。エンゲルスはここで一つの間違いを犯している。彼は瘰癧の原因として、イモを食べることをあげている。だがイモそのものではなく、イモを<料理する>ことが壊血病の原因となる場合がある。要するに、「まず最初に期待した結果をもたらしてくれる」勝利は、最終的には「予期せぬ結果」をもたらすことになりうる。そして彼は、百年前にはなんに問題もなかったこんな言葉をつけ加える。「過ぎていく日々において、我々はそうした法則のよりよい理解を獲得し、自然に対する伝統的な関わりかたに干渉することで生じるより直接的な、またよりかけ離れた結果を認めることになる。」最終的に、ロゴロジーが自然に対する人間の「支配」であり、「対抗自然」の人工的な領域と呼ぶものの証拠をあげながら、エンゲルスはこう要約する。こうした進歩が続けば続くほど、「人間は自然との一体化を感じるばかりでなく、知らなければならなくなり、ヨーロッパの古典的古代が衰亡した後に生じ、キリスト教においてその最も高度な完成を見た精神と物質、人間と自然、魂と身体の対称という意味のない不自然な観念がますます不可能となっていくだろう」。

 

 様々な有害なごみの山は自然の<なか>にある。あらゆる対抗自然(その利点の多く)は自然の<なか>にある。「不自然」なのは、シンボルを用いたテクノロジーの「労働」のおかげで、他の動物であれば世界のなかでの「存在」によってごく僅かしか影響を与えられない環境の性質を変化できることにある。ロゴロジーは、エンゲルスが最初に言ったことに耳を傾け続け、なお一層そうだというのは、「自然に対する伝統的な関わりかたに干渉する結果」、とりわけ熱核エネルギーやDNAの組み替えの知識を「支配する」にいたり、人間の本性の姿勢のあり方は恐らく「古きアダム」のときと同じある種の「自然との一体」をなすのであろうが、それは歴史や、テクノロジー的には(道具的には)いまだ進化を続ける対抗自然において推定されるような終末論でではないのは確かである。