ケネス・バーク『歴史への姿勢』 91

.. 追記

 

 『恒久性と変化』と『歴史への姿勢』という一組の著作に関して締めくくりの言葉を述べるにあたり、理論的な注釈が物語へと変わることが幾度かあった。今度のこともそうである。ライマン教授は私の質問に対して答えを送ってくれたが、この後記で彼の回答について論じようと思ったとき、それを見つけることができなかった。私の手紙はアトランタのエモリー大学から二月に出され、彼の答えはそこに送られてきた。しかし、五月に自宅に戻ると、私は自分の研究が漆喰のように、冬の間にはげ落ちてしまったのを見いだした。傷ついた部分を修復するのは混乱をつけ加えるだけで、おまけに彼の手紙を見つけることができなかった。かなりばつの悪い思いだったが、私はもう一度手紙のコピーを送ってもらえないだろうかと頼んだ。以下に彼の回答のある部分を引用する。(その後私は最初の手紙を見つけだした。かえって都合がよかったのは、後の手紙にはより重要で詳細な説明がなされていたことである。)

 

11月9日のあなたの手紙に急いで返事をします。ファイルから二月に書いたもともとの手紙を探しだすより、新しく書くことにします。問題は私の以下の発言が参照にしているものについてだと思います。

 

 だがまた別の形式主義的で、神話的なアプローチがケネス・バークの作品に見受けられる。プラトンの『国家』が劇的対話によってあらわされた哲学的-政治的なユートピアであるように、バークは我々の歴史の理解は基本的な劇的プロットを物語るかのようだと示唆している。その劇には放蕩息子の帰還を語るものもあれば、王の死、兄弟の争いを語るものもあり、人物に擬人化されたグループ、社会、国家に適用される。皮肉なことに、劇的様式として歴史を研究することは、プラトンが対立したある種の「料理法」になる見込みがある。現実の歴史は「配合」の産物であり――配合、再配合、作り直しがあり、同じ基本的なブロットの断片が暖め直される。バークに発する劇的アプローチは、「料理法」を歴史的俳優、歴史家、修史家それぞれによって使用されている過程として提示する。しかしながら、構造主義の一種として考えると、それは基本的なプロットが競合する構造であって、あらゆる歴史はすべての時代を通じて演じられ再演されるシナリオの貯蔵庫に究極的に還元される。(しかしながら、劇学による社会学は必然的に歴史を避けなければならないというわけではない・・・)

 

プラトンの料理法に関する議論は『ゴルギアス』にあります。私は1952年にニューヨークのリベラル・アーツ出版で発行されたW・C・ヘルムホルドの翻訳によるものを使っています。関連箇所は22-27ページです(古典学者のシステムで言えば、462-466節です)・・・

 あなたが正しく記されているように、私は「社会的変化のみが現れ続ける静的な世界という概念は奇妙に思えるが、ケネス・バークの歴史への姿勢から生じうるものである」と言いました。おわかりのように、私は静的な世界という概念をあなたに帰そうとしたわけではなく、あなたの作品からの可能な派生物としてのみ主張したわけですが、あなたがそれを受け入れないことを私はいま理解しています。

 もう一つの問題は私の「料理法」という言葉の使い方です。実際のところ、私は二重の隠喩に関わっており、一方の譬えが他方の譬えの確立を妨げ、弁証法的に反転させるような用法でもあります。しかし、こうした「方法論」は、印刷されるとむしろ料理法についての単純な見解の背後に隠れ、見えなくなってしまいました。私が伝えようとしたのは次のようなことです。私はプラトンの『ゴルギアス』での用法に従って「料理法」という言葉を使っています。プラトンはそこで料理法を、芸術とは区別される技巧として扱っています。しかも、この技巧は、医術に対して通俗的で破壊的な影響を及ぼします。プラトンは、修辞学は芸術であるというポロスの議論を批判するために、技巧/芸術と料理法/医術とのアナロジーを使います。プラトンの代弁者であるソクラテスによれば、修辞学は技巧です。こうしたことすべてが、力による政治対よき共和制による正義の対立というプラトンのより大きな議論に含まれることになります。技巧としての修辞は、料理法が医術に対してそうであるように、不正なやり方で関係しています。

 しかしながら、私はまたまったく異なった風に料理法という言葉を使ってもいます。哲学者/社会学者であるアルフレッド・シュルツによって発展させられた「生のための料理法」という観念を指し示す意図で使ってもいるのです。この意味においては、料理法についてなんら否定的な評価が意図されているわけではありませんし、実際、この用法によって、プラトンから発する否定的なイメージを固定化させず、弁証法的に逆転しようとしているのです。こうしたことすべては、最終的には、エッセイの最後のページで論じたジンメルの歴史の理論を肯定的に評価することを目指して意図されています。あなたからの非常に重要な手紙によって、私は自分の意図した二重の隠喩が印刷物からは読者に伝わらないことを学びました。

 

 

 私の「料理法」という言葉に対する反応は、次のような道筋を通った。二千年以上前の、これ以上はない権威であるプラトンが、当時のソフィストとの歴史的な戦いの際に、明らかに悪い意味をもって使った言葉を、私の(低次元な)「歴史への姿勢」に対する非難の形容として使っているのだと。

 

 攻撃されたと感じた私は、防御的になるのを感じ始めた。そして、偉大な哲学者の非難が実際に私に向けられたとしたら、どう答えることができるかと自問した。第一に、『ゴルギアス』におけるプラトンの修辞に対する攻撃は、『パイドン』でソクラテス流の性愛と呼ばれるものが輝かしく提示され、「哲学的な修辞の可能性」について語られたことで相殺以上のことがなされている(エドワルド・ツェラーの『ギリシャ哲学の歴史概観』による)。そして私は、この分野を「芸術」として論じていたアリストテレスの『修辞学』も思いかえした。『動機の修辞学』と『宗教の修辞学』を書いてはいたものの、この分野でなにが代表作なのかなかなか納得することができなかった。私は最初の批評の書『反対陳述』のときから修辞という主題については多大な投資をしていた。いや、それ以上であったので、高度に文明化された「芸術」として「料理法」を称讃しようという反抗心まで感じ始めていた。しかし、ライマン教授は、プラトンの類推では偉大な芸術がいかに<悪しき>修辞に適用されるかを示した。(語り手が聴衆を<説得>しようと試みる際に、最も大きな可能性としてなされるのは、アリストテレスの言葉で言えば、修辞的な行為であろう。)

 

 しかし、ライマン教授が「料理法という語をまったく異なった風に用い」、「哲学者/社会学者であるアルフレッド・シュルツによって発展させられた『生のための料理法』という観念」を指しているのだと聞くと、敵対感は一瞬のうちに消えてしまった。というのも、そうした考え方は、『文学形式の哲学』(1941年の初版で、現在はカリフォルニア大学出版から再版されている)というエッセイ集に再録した「生活の用具としての文学」と同じ道をたどっていることは確かだったからである。

 

 私の側の問題はこうである。それは「格言」についてのエッセイであり、私はそれを「文学の<社会学的な>批評」と呼んだ。しかし、私は格言に関する<書物>に注釈を加えたのだが、最初は口伝えによって広まっていったのは間違いない。その多くが文盲の人たちによる遺産であるに違いない。「そこには『純粋な』文学など存在しない。すべてが『薬』である。格言は慰めや復讐、勧告や警告、予言のためにつくられている。或は、典型的な繰り返しあらわれる状況に名前をつける。」

 

 そして私は、すべての文学をこうした光のもと、「社会学的に」見ることでエッセイを終えている。

 

このような社会学的な範疇はどのようなものになるだろうか。それは芸術作品を敵や味方を選別するための戦略として、損失を社会化し不吉な眼を避け、浄化、宥和、神聖視されているものの仮面剥ぎ、慰藉、意趣晴らし、警告、勧告、言外の命令もしくは指図等々のための戦略として見なすであろう。「悲劇」とか「喜劇」とか「諷刺」とかいったジャンル形式は「生活のための道具」として扱われるだろう。状況をいろんな風に、またいろいろな姿勢にふさわしいやり方で測り取るのがこれら諸形式だからである。これらの形式を成立させている典型的な要素が探求されるだろう。それらと典型的な状況との関係が強調されるだろう。そして究極の目的として諸戦略の戦略、「全面的総合」戦略の樹立が策せられるのである。

 

 

 ライマン教授が言ったように、私が彼を誤解したのと同じくらい私も誤解された可能性がある。そして、この問題は私の本で、弱点と「もったいぶった気取り」、私が「喜劇」として分類する言葉を扱う辞書において、哲学的/社会学的な(恐らくは厳密な「科学」とは対立するであろう)要素を明らかにする助けとなる。こうした一連の出来事が、かくも丸く収まったのは大きな恩恵である。

 

                       ケネス・バーク