ブラッドリー『仮象と実在』 2

  (形而上学は不可能ではない)

 

 (a)形而上学的知識がまったく不可能だと証明しようとしている者は、ここでなんらかの答えを求める資格はない。本論に当たって、自分の信念を確かめて貰うしかない。恐らく彼は自分でも気づかぬうちに、闘技場に入ってしまっているので、それを拒むことはできないだろう。彼は、対抗する第一原理をもった形而上学者の兄弟なのである。簡単なことなので長々しく述べることは勘弁して貰わねばならない。実在に我々の知識では到達できないと言うことは、実在を知っていると主張することである。我々の知識が仮象を越えることができないと論じるのは、それ自体超越を含んでいる。仮象の向こうにあるものについてなんの観念ももっていないなら、失敗や成功についてどう語るべきか分からないのは確かだからである。それを区別する検証法があるということは、目的とするものの本性をなにかしら知っていなければならないのは明らかである。我々の考えを矛盾だとする自称懐疑家自身、独断的な主張をしている。実在の本性が別様には知り得ないなら、そうした矛盾こそが究極的で絶対的な真理であろう。しかし、この序は、意図しないうちに形而上的観点をとり、乱暴に追い払ってしまう問題について僅かな知識しか持っていない敵対者たちと議論する場所ではない。必要である限り、それはふさわしい場所で扱うことになろう。それでは、形而上学に対する二番目の反論に移ろう。

 

 (b)この主張が大きな力をもっていることを否定しても無駄であろう。その主張は、「形而上学的知識は、理論的には可能であり、お望みなら、ある程度は現実的だと言ってもいい、しかし、にもかかわらず、実際にはその名に値する知識ではない」というものである。この主張は様々な根拠に基づいてなされ得る。その幾つかについて述べ、私には十分と思われる答えをしてみよう。

 

 我々の領域に入ることを拒む第一の理由は、この領域に行き渡っている混乱と不毛にある。「同じ問題、同じ議論、同じ失敗があるばかりだ。なぜそんなものは棄てて出てこないのか。打ち込む価値のあることが他にもあるのではないか」とはしばしば聞かれることである。これについてはすぐにたっぷりと答えるつもりだが、まず問題が変わっていないということについてはきっぱりと否定しておこう。この主張は、人間の本性は変わらないというのと同じくらい、正しくもあり間違ってもいる。歴史において、形而上学は一般的発展から働きかけられているばかりでなく、それらに働きかけてもいると考えるとき、この議論は擁護しがたく思える。しかし、所を得ない歴史的問題はともかく、私は許された可能性に向いたい。目標が不可能ではなく、冒険もいとわないならどうだろうか。我々よりずっとすぐれた人々がみんな失敗したのだ――と言われるかもしれない。しかし、成功した者が常に最も優れた人間だとは限らないのであり、哲学の冷たい世界にさえ幸運はあろう。試してみるまで誰にも分からないことである。