ブラッドリー『仮象と実在』 3

  (形而上学は擁護しがたいものでもない。)

 

 しかし、真剣に成功を期待するということになると、私の答えは、もちろん、否である。つまり、私は満足のいく知識が可能だとは思っていない。実在に関してどれだけのことが確かめられるかはこの本で論じることになろう。しかし、ごく部分的な満足しか期待されないことはすぐにでも言える。絶対について確かな事実の知識を一つもてると信じるくらいの大胆さはあるが、我々の理解は惨めなまでに不完全だと確信してもいる。しかし、不完全であるから価値がないという結論に対してはきっぱりと反対する。そう言う者に対しては、眼をひらき、人間の本性について考えるべきだと言わせてもらわねばならない。宇宙について考えることをなくすことが可能だろうか。誰にとっても、物事の全体は、意識的であれ無意識であれ、そうしたおおげさな形であらわれなければならない、と言いたいのではない。様々な理由によって、ごく普通の人間でも、それを不思議に思い、反省を余儀なくされることがあると言いたいのである。彼にとって世界とそこにいることとは本来的な思考の対象であり、そうであり続けるだろう。詩、芸術、宗教が関心を引かなくなり、それらが究極的な問題と取り組み理解しようとすることを止め、神秘と魔法の感覚が心を当てもなく迷わせることもなく、何ともしれぬものを愛させることがなくなったら、一言で言えば、黄昏になんの魅力もなくなったとき、形而上学は無価値となろう。問題は(現状ではこうなる)、我々が究極的真理について反省したり考えたりするかどうかではなく――ほとんどの者がそうするし、それは止みそうにない。問題は、それがどういう具合になされるべきなのかにある。形而上学の主張は常軌を逸したものとは言えない。形而上学は人間の本性の以上のような側面、実在を考え理解しようとする欲望の上に立っている。そして、そうした試みが、我々の本性が許す限り徹底的になされるべきだと主張しているに過ぎないのである。こうした側面をもって人間精神の他の働きまで取って変えようとしているわけではない。ただ、考える際、ときには正確に考えようとすべきだと主張するだけである。形而上学の反対者は、ジレンマに追い込まれるように私には思える。彼は、事物の本質についてすべての反省を咎めるか――そうなら、人間の本性のもっとも高次な部分を破壊、もしくは破壊しようとしていることになる――或は、考えることは許すものの、厳密に考えることは許さないのか、そのどちらかでなければならない。言ってみれば、我々の存在の別の働きと絡まっている限りにおいて思考の実践を許すというわけである。しかし、思考が他とは区別されるそれ自らの純粋な発展を試みるやいなや、直ちにそれを禁じるのである。これは、不満足なやり方によってのみ、反省への本能的な切望を満足させることができる、と言っているに等しく、パラドックスに陥っているように思える。もしこの人物が、正確に考えようとしない、或いはそうできないことで満足するなら、全く合理的である。しかし、別な具合に考え、自分にはより以上の厳密な思考が本来欠けているとするなら、そうした考えはぜひとも打ち壊すべきである。私は、こうした主張を独断的で馬鹿げたものと見なさざるを得ない。

 

 しかし、読者は恐らく、別の反論を出されることだろう。確かに、実在についての思考には道理があるが、結果が伴っていないものをどうして望ましいものと判断するのか理解できない、と。率直に答えてみよう。私は形而上学を研究するのが誰にとってもいいことだとは確かに思わないし、多くの人間が研究すべきだという意見も取れない。しかし、私は、この研究がなんら実証的な結果を生みださないとしても、必要で従事するべき仕事だと思う。私の見る限り、他には独善的な迷信から身を守る方法はない。一方にある正統的な神学、他方にある陳腐な唯物論(これらを顕著な例としてあげるのは自然である)は、自由で懐疑的な探求によって、日光を浴びた幽霊のように消え去ってしまう。もちろん、私はどちらの信念をも完全に否定し去ろうとしているのではない。しかし、どちらも、真面目に受け取れば、我々の本性を不具にすると信じている。経験が十分示してくれるように、第一原理を誠実に求める精神ではどちらも生き残ることはできない。首尾一貫した考えを熱烈に求め、善良すぎて愚かな狂信や不誠実な詭弁の奴隷になれない者に形而上学という避難所が存在するのは望ましいと思われる。これが、たとえ完全な懐疑主義に終わるにしても、形而上学が一定数の人間によって研究されるべきだと考える一つの理由である。

 

 私にはより重く感じられるもう一つの理由がある。我々はすべて、多かれ少なかれ、日常的な事実を超えた領域に入らざるを得ないと私には思える。それぞれの道筋によって、我々は眼で見ることのできる世界を越えたものに触れ、交流していると思われる。様々な具合に、我々は、助けにもなれば謙虚にもさせ、引き締めもすれば夢中にもさせる高次な何ものかを見いだしている。ある種の人間にとっては、宇宙を理解する知的な努力は、神性を経験するための主要な方法である。恐らく、どう思い描くにしろ、こうしたことを感じない者は、形而上学にさしたる関心を払わないだろう。こうしたことが強く感じられるのであれば、そのこと自体が正当性となる。ただ一つの道を行くことで望みが達成される人間は、それがどんな道であろうが、世の中がどう考えようがその道を探し出そうとするだろう。そうしないのは卑しむべきことである。自己犠牲は安価なものは価値がないとする商売ではしばしば「偉大な犠牲」となる。人が何を欲しているかを知り、尻込みすることなくそれを得ようとする者は、より困難な自己放棄をすることになろう。これが、究極的真理を研究しようとする人間のもう一つの拠り所となろう。

 

 (c)最後に言うと、これまでの哲学ではその目的に答えることができない理由がある。進歩があるにしろないにしろ、少なくとも変化は存在する。世代によって変化する精神は、異なったものによって知性を満足させる。そこに、新たな詩同様、新たな哲学が必要とされる根拠があるように思われる。どちらの場合も、新たな産物は、通常既に存在するものより劣っていることが多い。だが、読者により親しく訴えかけることで、目的を達することもある。本当に悪い部分でも、ある側面、ある世代における最良の働きを鼓舞するのに役立つかもしれない。それゆえに、我々が変化する限り、常に新たな形而上学を欲し、またもつことにもなる。

 

 この序を一言警告を述べることで終わりにしたい。これまで私は、哲学を我々の本性の神秘的な側面を満足させるものとして語らざるを得なかった――ある種の人間にとっては別の手段では得ることのできない満足である。このことで、形而上学者が人並み外れており、高い次元のなにものかに関与しているという印象を与えたかもしれない。こうした説はもっとも嘆かわしい誤りであり、知性が我々の本性においてもっとも高次なものだというのも迷信なら、より高次の問題に関してなされる知的な仕事が、まさしくその理由によって高次な作品だというのも誤った考えである。確かに、ある人間の生涯が他の人間と比較して、神性に満ちている、或いはより強い意識を持って神性を理解しているということはある。しかし、神性へ秘かに通じる職業や営みがあるわけではない。確かに、思考を通じて究極的な真理へ向かう道は、明確で正当ではあるが、他の手段より優れているわけではない。いかに哲学者が罪を犯しがちでもその罪は知れているが、哲学者が精神的な誇りとして正当化し得ることもほんの僅かなのである。