ブラッドリー『仮象と実在』 5

      [非実在としてあらわれる二次性質]

 

 詳細に述べるまでの問題ではない。ものには色があるが、誰の眼にとっても同じように色づけられてはいない。数人の眼を除いてはまったく色と認められない場合もある。そのとき、色はあるのだろうか、ないのだろうか。性質をどのようにしてかつくりだす関係の一方にある眼自体が色を有しているのだろうか。それを見るもうひとつの眼が存在しないなら、もちろんそんなことはない。それゆえ、真に色のあるものなど存在しないし、色とはそれ自体色のないものにのみ属するように思える。同じことは寒暖についても言える。あるものは、皮膚の部分によって冷たいかもしれないし、熱いかもしれない。そして、皮膚との関わりがなければ、そうした性質は存在しないだろう。同様の議論によって、皮膚はそれ自体でそうした性質をもっておらず、その性質はなにが有しているものでもない。また、音も聞かれなければほぼ実在とは言えない。音を聞くのは耳だが、耳自体を聞くことはできず、耳が常に音を享受しているのでもない。匂いと味に関しては、より事態は悪いようである。それらは明らかに我々の快苦と混じり合っているからである。あるものが口のなかでのみ味わわれるのだとすれば、味とはそのものの性質なのだろうか。鼻のないところに匂いはあるのか。鼻と舌とはもうひとつの鼻や舌によって匂われ、味わわれるのでなければ、これまた性質として享受されるものをもっているとは言えない。そして、我々が大胆にも対象のなかに位置づけている快さや嫌悪感はどうすればそこに存在しうるのだろうか。あるものが楽しかったり、むかつくとき、それらはそのもの自体にあるのだろうか。私とは、こうしたとりとめのない形容詞の常に変わらぬ所有者なのだろうか。だが、私は読者を細かい点でうんざりさせるつもりはない。事物はある器官に対してのみ二次性質をもつこと、器官そのものがなんらかの方法でそうした性質をもつのでないことは至るところで示されている。それらは形容するものとして、延長物の諸関係に付随して生じるものと見られている。延長だけが実在である。夢やあらゆる種類の錯覚をも含めた主観的感覚と呼びうるものが証拠として呈示される。我々は対象なしに感覚をもて、感覚なしに対象をもてるゆえに、一方が他方の性質とはなり得ない、というように議論は続く。それゆえ、二次性質とは、それ自体は延長以外に性質をもたない実在に由来する仮象である。

 

 この議論には、消極的、積極的な二側面がある。一方は二次性質が事物の事実上の本性であることを否定し、他方は一次性質を肯定する方に進む。まず消極的な主張が正しいかどうか調べてみよう。あるものにある性質があるとき、そのものはその性質をもっていなければならない、という原則が真理かどうかについて争うつもりはない。ただその前提に立ったときこの説が擁護できるかどうか問うてみよう。次のようにも言える。つまり、すべての議論は知覚器官の欠点、あるいはその障害を示しているだけだ、と抗弁もできる。ある種の状況下でなければ二次性質を受容できないという事実は、その性質がそこに、事物のなかに存在しないことを証明はできない。諸性質がそこにあるのだと仮定すれば、これまでの議論のように、その不在を証明しても意味がない。錯覚や夢ではこの擁護を覆すことはない。諸性質とは事物のなかにある不変的なものである。もしその伝達に失敗したり、間違ったりするなら、それは常にその本性とは関係のないなにかのせいである。もし我々が知覚できるなら、それはそこに存在する。

 

 だが、この種の擁護は支持しがたいように思える。もし諸性質がある種の条件以外では伝わらないなら、その条件のない場合にそれをどう言えばいいのだろうか。一度仮象を考慮に入れざるを得ないなら、後になってそれを攻撃することはできない。認められるのは、諸性質が常に関係において生じ、常にあらわれとしてあるから、我々はそれらを仮象としてしか知ることがないことである。諸性質がそのようなものとしてそこに実際にあると単に仮定してもまったく意味がないか、自滅的であろう。明白な例がある。ある女性が永久に彼女自身において魅力的だというのは信仰であり、論点を越えてしまう。だが、もっと日常的なものに戻るならそうはならないだろう。我々は嫌悪感や快適さが味や匂いの性格の部分をなすことを見るが、それらを事物のあるいは器官の不変の性質だとするなら筋が通らないどころか、馬鹿げたものにさえ思われよう。こうしてこの擁護は全体として崩れ去ることを認めねばならない。二次性質は単なる仮象と判断されねばならない。