ブラッドリー『仮象と実在』 7

      (一次性質は都合のいい作り事でしかない。)

 

 「なんの正当性もなしに」とはいっても、と唯物論者は答えるかもしれない、「科学的手続きにおいて、二次性質は一次性質の結果であることは説明されている。それゆえ、明らかに、一次性質が独立しており、先行している」のだと。だが、これは全く単純な誤りである。というのも、ある要素Aが与えられたとき、bがそれに続くものとしよう。そして、Aがcあるいはdあるいはeなどなんらかの性質が伴った場合にもbが同様にあらわれると証明されるとしよう。しかし、このことからAだけが実在し、独立して働くという結論には進めない。二次性質bが一次性質Aから生じることは他の要素を考慮するまでもなく説明されると主張されるかもしれない。そうだとしてもよい、だがそこから導き出すことができるのは、Aに伴う固有な諸性質がこの過程では関与していないということである。これは証明というものではないし、Aが単独で動くことができる、それだけが真の実在たり得るということも大目に見られるような小さな仮定ではない。疑いなく、作業の際、物事のある側面を無視することは科学的である。だが、無視した側面が事実でないとか、他との関連を考慮することなしに用いられるものが自律した実在なのだと主張するのは野蛮な形而上学というものである。

 

 結局我々が見いだしたのは、二次性質が仮象なら、一次性質が自律できないことは確かだということである。唯物論者が盲目的に発展させてきたこの一次性質、二次性質の区別は実在の本性に我々を近づけてくれるようには思えない。