ブラッドリー『仮象と実在』 8

 第二章 実体と属性

 

      (内属の問題。事物とその性質との関係は理解しがたい。)

 

 一次性質と二次性質との区別が我々をさほど先まで進めてくれないことを見てきた。そのことはおき、もう一度我々が経験するところにまっすぐ立ち戻り、別の方法でそれを理解できるものにするよう努めてみよう。世界にあるものは事物とその性質に分けられる。実体と属性は事実を理解し実在に到達するための由緒ある区別、事実の配分法である。理論的に重要な企てとしてはこの方法には欠陥があることを簡単ではあるが指摘しなければならない。

 

 ひとかたまりの砂糖というおなじみの例をとってみよう。それは事物であり、それに適った固有の属性がある。例えば、白く、固く、甘い。砂糖はそのすべてであると我々は言う。だが、そのであるが本当に意味しているものがなにかは疑わしい。事物はある性質だけをとってそれで言いつくせるものではない。「甘い」ということが「甘いだけ」と同じなら、事物は明らかに甘いことにはならないだろう。そしてまた、砂糖が甘い限りにおいて、それは白くも固くもないことになる。というのも、それらの性質はみな別々のものだからである。それらを別々に取り上げるなら、事物はそれらすべての性質をもつものたり得ない。明らかに、砂糖は単なる白さでも、単なる固さでも、単なる甘さでもなく、現実はその統一のうちにある。だが、他方、それらの性質なしに存在できる事物について問うてみるなら、我々は再び当惑させられることになる。我々はそれらの性質の外側に、あるいは内側に存在する真の統一物など発見できないのである。

 

 だが、恐らく、統一という点を強調したのがこの混乱の原因である。もちろん、砂糖は異なる属性の単なる集まりではない。だが、なぜそれは属性の関係以上のものであるべきなのか。「白い」、「固い」、「甘い」その他がある仕方で共存する、確かにそれが事物の秘密である。諸性質はそのものとして存在し、関係のうちに存在する。だが、ここでも前と同じように、言葉をそのままにしておくと、迷路のなかでさまよい歩くことになる。「甘い」、「白い」、「固い」は我々がそれについてなにかを語るべき主語になっているように思われる。明らかに、そのどれか一つを述語と断定はできない。もしそうしようとすれば、それらは一斉に抵抗するだろう。それらは全体を形づくるには調和がなく、更に言えば相反している。かくして、明らかに、関係はその各々において主張されねばならない。ある性質Aは別の性質Bと関係している。だが、この「いる」ということで我々はなにを理解するのだろうか。「Bと関係して」いるのがAだというのではなく、Aが「Bと関係して」いると主張しているのである。同じように、Cは「Dの前」だと言われ、Eは「Fの右手に」あると言われる。だがそれを解釈して、「Dの前」がCである、「Fの右手」がEであるとするとき、我々は恐怖にたじろぐ。いいや、我々は関係は事物と同一ではないと答えるべきだろう。それは事物に本来備わった、あるいは属しているある種の特性に過ぎない。困った我々は使うべき言葉を「である」ではなく、「有している」とする。だが、この対応はほとんど体をなさない。問題になっているのが有しているの意味であることは明らかであり、真面目に取り上げるまでもない喩えを除けば、どんな答えも存在しないように思える。そして、我々は古くからのジレンマから解放されない、つまり、事物と異なったものを属性と断ずるなら事物にそれ自体ではないものを帰することになるし、事物と異なっていないものを属性とするならなにも言っていないことになる。

 

 余儀なく我々は変更を試みねばならない。関係は、一方から他方へ結ぶのではなく、双方向のものでなければならぬ。AとBはある点では同一で、別の点では異なっている、あるいはそういうように空間内、時間内に位置づけられている。かくして、我々は単数のであるを避け、複数の「である」を得る。だが、真面目なところ、これは難点の説明ではなく、言葉遊びのようなものに見える。というのも、もしAとBを別々に取り上げて、双方が別々にこの関係を「有している」というなら、間違ったことを主張していることになる。こうした関係にあるAとBはそのように関係しているというなら、なにも言ったことにならない。ここでも前と同じく、属性がその事物となんの差異もなければ意味がないし、その事物と異なっているなら間違いである。

 

 この堂々巡りから抜けだす別の算段をしてみよう。関係を関係するものの属性とすることを止め、多かれ少なかれ独立のものとしよう。「関係Cがあり、そこにはAとBがある。関係は双方に同時にあらわれる」と。だがここでもまた我々に進展はない。関係CはAとBとは異なり、もはやそれらの属性でないことが認められている。しかしながら、この関係Cについて、そしてAとBについてなにかが言われる必要があるように思える。そのなにかとは一方を他方の属性にするというようなことではない。もしそうなら、もう一つの関係Dが登場し、一方にCを、他方にAとBとを置くことになろう。だが、こうした一時しのぎでは無限後退に導かれるだけである。新たな関係DはCあるいはAとBの属性とはなり得ない。そこで我々はDとそれ以前のものとをつなぐ新たな関係Eに助けを求めねばならない。だが、このことは別のFを導くに違いなく、以下無限に続く。かくして、問題は関係を独立した実在にすることでは解決されない。というのも、もしそうなら、諸性質とその関係は完全にばらばらになり、我々はなにも言っていないことになるからである。あるいは、古い関係とその諸項の間に新たな関係をつくらねばならず、新たな関係がつくられたからといって我々の助けにはならない。新たな関係が際限なく要求されるか、もつれた困難のなかに我々は置き去られる。

 

 事物を属性に分解し、独立した関係とともにそれぞれを実在とするのは明らかな誤りであることが証明された。かく反省するとき、諸項の傍らに独立して存在する関係なるものは錯覚であると認めざるを得ない。もし関係が実在なら、それは関係する諸項を犠牲にするのか、あるいは少なくとも諸項のうちにあらわれるのか、そこに属しているかなのに違いない。AとBとの関係は実体的な基盤も含んでいる。もしAがBに似ているなら、その基盤は異なった両者をまとめる同一性Xである。そしてそれは空間と時間をもまとめ上げる――至るところに、関係するものを受け容れる、あるいは、差異や関係のない全体が存在するに違いない。実在とは、互いに相容れない自律したAとBの差異を有しているように思える。そして、矛盾なしにこの多様な属性を保つために、全体はそれらが関係という形を取ることに同意している。そういうわけで、諸性質はある場合には両立できず、ある場合には両立するものとして見いだされる。それらはすべて異なっているが、他方、一つの全体に属しているので、共に集まることを余儀なくされる。関係の助けを借りて始めて別々の性質が共存し、対立することを止める。他方、事物がその属性の間に関係を立てることに失敗すると、すぐに矛盾が生じる。かくして、様々な色と匂いは実在のなかで平和に共存している、というのも事物のなかでそれらは分かたれているが、併存したままにされるからである。だが、色と色とはその同質性が両者を一緒にしようとするために衝突する。ここでまた、同質性が空間の助けを借りて関係的になるなら、それらは互いに別々なものとなり、再び平和が取り戻される。端的に言うと、「矛盾」とは、両者を別々にしておける関係を見いだすことのできない差異からなる。それは生活様式modus vivendiを無視した結婚の試みである。だが、くつろいだ統一感と取り決めをまもった全体があるところでは、調和のある共存が存在する。

 

 私は、主として「矛盾」の本性に光を当てるためにこの議論を始めた。それは我々固有の問題に解決を与えられない。我々がいかにものごとをあるやり方で整理せざるを得ないかについては教えてくれるが、そうしたやり方を正当化はしない。事物は関係への消失によって、属性の自律を認めることによって矛盾を避ける。しかしそれは、ある種の自殺によって矛盾を避けることである。諸関係やその諸項について合理的な説明を与えてくれるわけではないし、それなしでは無しか残らない真の統一を回復することもできない。このすべての仕掛はまったくの一時しのぎである。それは外の世界に対しては「私はこれらの属性の持ち主だ」と言い、それらの属性に対しては「私は関係に過ぎず、君たちは自由だ」と言うことで成り立っている。そしてそうした性格を同時にもつと言うのは自分自身に自らするのだとしても無益な作りごとである。こうした解決法はある種の働きをするが、理論的な問題は解決されない。

 

 諸事実が我々のもとにくるときの直接的な統一性は経験によって、後には反省によって壊される。諸属性をもつ事物とは多様性と調和とを同時に享受するものとして考案された。だが、いったん識別されると、事物はばらばらに、離ればなれになる。そして、それらの関係を理解しようとする試みは、作りものに過ぎないと自ら告白する統一物か、古くからあり、関係を認めない分割されない実体へと我々を連れて行く。このジレンマの希望のなさは、関係が性質に対してどのようにあるかを検討してみるとより明らかになるだろう。だが、それには別の章が必要である。

 

 結論として、非常に簡単にではあるが、起こりうる提案について述べておこう。事物における諸性質の識別は、我々がそれを見る見方に依存している。事物そのものは統一を保っており、属性や実体という側面はただ我々の見地から見て取れるものである。かくして実在は傷つけられない。だが、こうした弁護も無益であって、というのも、問題はいかに誤りなしに我々が実在を考えられるかにあるからである。様々な観点を集めて無理にでもそれを事物に当てはめることで我々の謎を終わらせるのか。さもなければ、諸観点を経ない事物はなんの性格もあらわさず、事物のない諸観点は実在をもたないのだとするか――観点自身は幾つも両立可能だとして。端的に言って、事実と我々の見方を区別することは、元々の混乱を二倍にするだけである。事物と同様我々の精神にも不整合が存在することになってしまう。それでは助けになるどころか、事態を悪化させることになろう。