ブラッドリー『仮象と実在』 10

     (関係のない性質は正当なものとして得ることはできない。)

 

 次のような答えを想定してみよう。性質は関係と離れて見いだすことはできないが、それはそれらが異なった存在であることを否定し去る証明ではない。というのも、我々はそれらを区別し、別々に考えることができるからである。こうした認知には、明らかに精神のある操作が必要である。それゆえ、異なったものは別個のものでなければならず、結果としてそれらは関係しているが、しかし、この関係は実際には実在に属していない。関係はただ我々においてのみ存在し、我々が知識を得るための方途なのである。しかし、にもかかわらず、区別は現実の差異に基づいており、関係が消え去ったり取り除かれたときにも残る。

 

 しかし、こうした対応は過程とその産物を分離することで、擁護しがたいように思える。性質の区別は、常に、関係を認める行為によってなされる。なされるだけでなく、断固としてそれを保つ。結果をその過程とは別に手に入れることはできない。過程は本質的ではないとでも言うだろうか。しかし、それは証明されるべき結論であり、それを仮定すれば恐ろしいことになる。類推によって証明されるだろうか。対象の内的本質に特別影響を与えない過程や関係の存在を受け入れ使うことは多くの場合可能である。しかし、結局のところ内部と外部とを分け、内部をいかなる関係からも完全に独立したものとする可能性そのものがここでの問題なのである。比較といった、比較される性質が存在していることをあらかじめ前提している心的操作も、その性質がいかなる関係にも依存していないなどということはまったく証明することはできない。私はこれが類推によって決せられる事柄だと信じることはできない、というのも簡単に言うとこうである。与えられたものの一部分を取り除き、他の部分を抽象化して呈示するような操作がある。その結果は抽象物にしか見いだされることはない。我々にそれ以上の情報がないなら、私にはその結果が過程を欠いた事実であると主張するに足る理由を見いだすことができない。重荷はすべてそれを主張する者にのしかかり、それを完全に支えきるのに失敗する。知覚においては、一つの性質が最初に、他のものに先立って与えられねばならず、それゆえ関係的たり得ないという議論はほとんど言及する価値もない。諸性質が常にある結びつきで現われ、決して単独で現われないことほど自然なことがあろうか。