ブラッドリー『仮象と実在』 11

      (関係のない性質はそもそも存在しない。)

 

 更に進むこともできる。過程を無視した事物が擁護しがたいだけでなく--たとえうっかり真理に入り込むようなことがあるにしても--誤謬をもたらす証拠がある。というのも、結果は過程のうちに得た性格をもっているからである。諸性質の多性は、端的に言って、結果の単一性と調和することができない。多数性は関係に依存しており、この関係なしには、それは別個のものではない。しかし、別個でなければ、異なったものでもなく、それゆえ性質でもない。

 

 私は差異のない性質はどんな意味でも不可能であると言っているわけではない。私の知識に反する生物が存在し、その生は独力の、切れ目のない単純な感情で成り立っているかもしれない。そうした可能性に反対する議論は、私の判断では不十分である。もしこの感情を性質と呼びたいのなら、ぜひそれで満足していただきたい。しかし、それではすべてにおいて不適切であることを思い起こすべきである。というのも、宇宙がこのように一つの性質でできているのかどうかについて誰も主張しているわけではなく、問題はまったく諸性質に関するものだからである。そして、一つの感情に制限された宇宙は、複数の性質がないばかりでなく、他とは異なる、関係によって区別される一つの性質であることさえできない。我々の疑問とは、実際には、関係が差異に本質的なものなのかどうかということにある。

 

 実際、二つのものが決して別々には見いだされないことがあるのを見た。抽象による分離は真の分離を証明するものでないことを見た。端的に、分離化とは分離を含むゆえに関係を含み、それゆえ、それを独立のもととするのは自己矛盾だと言わねばならない。性質AとBが互いに異なっているとしよう。もしそうなら、その相違はどこかにあるのでなければならない。もしそれが、ある度合い、ある拡がりにおいてAやBの外側にあるなら、我々は同時に関係を手に入れる。差異や他性がどうして内側にあり得ようか。もしAのなかにそうした他性があるなら、Aの内側にはそれ自身の性質とその他性とが区別されなければならない。もしそうなら、それらの性質が内側で解決し得ない問題となり、関係のある二つの性質に分裂する。簡単に言うと、関係のない多様性は意味のない言葉のようなものである。そして、多数性そのものはここでの問題ではないと主張しても解答にはならない。私は反対を確信しているが、もしなんなら、別個と差異とに問題を限定してもいい。議論をそこに留めると、もし差異がないなら、すべてが一つのもののうちになければならないので性質も存在しない。なんらかの差異が存在するなら、関係を含む。関係なしには意味をもたない。単なる言葉であって、思考されたものではない。どれだけ反抗してみても、関係を含まないような思考を誰もすることはないだろう。これらすべてが関わるように思われる問題とは、異なった性格のものを考えることなしに諸性質を考えることが可能なのか、ということである。明示的か、あるいはそれを理解しようとするときにのみ精神が無意識のうちに供給するのかはともかく、性質を関係なしに考えることは可能なのだろうか。関係のない諸性質は思考にとってなんらかの意味をもつだろうか。私自身に関していえば、意味をもたないと確信している。

 

 私はこの基礎に基づいて体系を打ちたてようとする最も徹底的な試みのうちにこの点の証拠を見いだす。そこでは、宇宙のすべての内容物が不可能な幻影のようなものに変じているといって過言ではない。実在は遮断され、一様で、決して疑うことのない、信念を越えた一様さである。他方、我々の実りの多い生とは、想像もできないような逸脱から想像力豊かに回復する不屈さにあるように思える。世界を形づくるこうした曖昧なつながりには共有される実在が欠けている。それは上方で、天空の星のように固定されている、いやむしろ、天空だけが存在しているかのようなのである。