ブラッドリー『仮象と実在』 18

      (通常考えられている時間も同じ欠点をもつ。)

 

 時間を心理学的に説明しようとする試みは、結局のところ、時間を無時間的な精神から生じたものだと示そうとする。しかし、空間での結論と同じ理由、更にそれ以上に重要な点から、そうした試みについて考えることはしない。単純に、時間の性格を探り、そうした存在が実在に属することができるのかどうかについて調べてみよう。

 

 通常、時間を空間的形式のもとで考えはしない。それは一つの流れであり、過去と未来はその部分で、共存しないと思われているが、しばしばするかのように語られることもある。このように捉えられる時間は、空間に対してと同じ異議にさらされている。それは関係であり、他方から言うと関係ではない。関係を超えた存在ではあり得ない。空間において致命的であったこのジレンマを共に追ってきた読者には多くの説明は必要ないだろう。もし時間が持続のない結合要素同士の関係なら、時間全体に持続はなく、まったく時間ではなくなってしまう。しかし、時間全体に持続があるなら、各要素にもそれは見いだされるはずであり、そのときそれは構成要素ではなくなってしまう。実際には、時間は一なるもののなかに「前」と「後」があり、この多様性がなければ時間ではない。しかし、こうした差異は統一体として擁護され得ず、どうしようもないままに時間は分解してしまう。そこで、関係の名のもとに擁護されることになる。「前と後との関わり」が時間の性格である。ここで、関係と性質に関する古くからの難問が再び始まる。関係が統一体ではなく、諸項が離ればなれなら非実在である。諸項に独立した性格を導入することは、各項がそれ自身において前であり後であるようにする。しかし、それは諸項が関係のなかに消散する過程を持ちこむことで、最終的には無に終わる。そして、時間の関係を統一物とすることは、まず第一に、時間を固定的なものにすることであり、その内部にある前と後の多様性を破壊してしまう。第二には、外的な関係によってのみ存在するこの切れ目のない統一物は、膨張を余儀なくされる。空虚な切れ目のなさと、錯角でしかない完全さに向けて自身を超えて移行していくことの間を絶え間なく往復することで滅びてしまうのである。

 

 空間の場合のように、質的な内容--単に時間的なものではなく、時間において関係しあう項を離れてはどんな性格ももたないもの--も解くことのできない問題を提起する。統一物であるこれとそれを満たす時間をいかに結びつけるのか、また、別なものとしていかに確立するのかはどちらも我々の手に余る。空間と同じように、時間もこの限りでは仮象であることが明らかになる。