ブラッドリー『仮象と実在』 19
(時間を別のやり方で捉えても、「いま」は自己矛盾である。)
しかし、我々は空間的形式は時間に本質的なものではないことを正当にも述べたのであるから、公正な吟味をすれば、その点で誤ることはあるまい。そこで、時間をあるがままに、外からなにかをつけ加えることなしに見ることにしよう。我々が確信するのは、古いジレンマの根は引き抜かれはしないということである。
もし時間をそれがあるままに保ち、まず第一に推論や解釈から隔離しようとするなら、あるがままの時間だけに我々の注意を向けねばならないだろう。しかし、あるがままの時間とは現在時の時間に違いなく、少なくとも暫定的には、「いま」を超えないことに同意しなければならない。我々の前にあらわれる問題とは、「いま」の時間的内容についてのものとなるだろう。第一に、それが存在するかどうか問うてみよう。「いま」というのは一様で、分割できないものなのだろうか。我々はすぐさま否定的に答えることができる。時間は以前と以後を含み、結果的に多様なものである。それ故、一様なものは時間ではない。そこで、現在を多様な側面をもつものとして捉えることを余儀なくされる。
どれだけ多くの側面を含んでいるのかというのは興味深い問題である。ある意見によれば、「いま」のなかには過去と未来を観察することができる。それが現在によって分割されているのかどうか、もしそうなら、正確にはどういう意味においてなのか、といったさらなる疑問に導かれることになる。別の意見では、こちらの方が私には好ましいが、未来はある構築物であり、あらわれることはない。「いま」に含まれているのは、現在が過去になる過程だけである。しかし、ここで、こうした差異は、実際にそのようなものなのだとしても、幸運にも問題にされることではない。我々に必要なのは、「いま」のなかにある過程を認めてもらうことだけである。(1)
というのも、いかなる過程でも、それが認められると、「いま」を内側から破壊するからである。以前と以後は別のものであり、それらが両立しないために我々は関係を使わざるを得ない。ここで、古くからの退屈なゲームが再び始まる。問題の局面は部分を含み、「いま」は「複数のいま」からなり、最終的にはこれらの「複数のいま」が発見不可能であることが証明される。というのも、時間の切れ目のない部分に、「いま」は存在しないからである。持続の断片は、我々に複合的なものとしてはあらわれない。ほんの僅かの反省でそこにいつもの不正があることは明らかになる。もしそれらが持続でないなら、それは以後と以前を含まず、始まりも終わりもなく、時間の外側にいることになる。しかし、もしそうなら、時間は単に持続同士の関係になる。持続は無時間的なものとの無数の関係であり、それに関わることでどうにかして持続となるのである。しかし、関係がいかにして統一されるのか、その差異が統一の属性となるのか、我々には理解することができない。もし統一されることに失敗するなら、時間は直ちに分解してしまう。しかし、どちらにしても不可能な帰結に赴くようなことをどうして細部までたどって読者をうんざりさせることがあろうか。もし読者が原理を理解してくれるなら、彼は我々とともにある。さもないと、不確実な同胞に向けた議論argumentum ad hominem は確実に悪心を催す議論argumentum ad nauseamになってしまうだろう。
時間の連続を否定することから生じる一つの帰結を例示しよう。時間は、この場合、A-C-Eのような無時間的なものの間に、落ち込むだろう。しかし、変化の割合はすべての出来事において斉一ではない。我々が我々にとって明らかな要素を前にしたとき、それが現実的可能的な速度の限界を定めるのだと主張するものはいないだろうと思う。全体の時間はA-C-Eと一致するが、a-b-c-d-e-fという六つの構成要素を含むもう一つの出来事の系列を考えてみよう。そのとき、これらの関係(例えばaとbの、cとdの間の)はAとCか、CとEの間にあることとなるが、そのことでなにが意味されることになるのか私にはわからない。あるいは、a-bの移行が、無時間的で、経過をいっさい含まないAに一致することにもなろう。私が見る限り、これでは完全に自己矛盾している。しかし、この問題の全体は、詳細な議論に関わるものではなく、原理の理解にかかっているとつけ加えたいと思う。原理を把握したものが、その主要な帰結に到達できないというのは疑わしい。しかし、誰も批判できないような多くの尊敬に値する作家たちがそうなのである。端的に、彼らは決して理解にまで達していない。
かくして、もし我々が現在と呼ぶ時間に経過が存在するなら、時間はジレンマに切り裂かれ、仮象が運命づけられる。現在が無時間的なら、別の破滅が我々を待ち受けている。時間は現在と未来や過去との関係だろう。既に見たように、関係は多様性や統一と両立可能ではない。更に、現に存在しない未来と過去の存在は曖昧なように思える。このことを別にしても、時間はそれを超える際限のない過程に滅し去る。その要素は永久にそれを超えたなにかとの関係であり、そのなにかは最終的に発見することができない。この過程は、その時間的形式、その内容の持続性の双方において、所与のものを超えるように強いられている。
時間は、空間と同じく、実在ではなく、矛盾した仮象であることが明らかにされた。次の章では、変化について述べることで、この結論を補強し繰り返そう。
*1:(1)「現在」の異なった意味については『論理学の原理』pp.51,foll