ブラッドリー『仮象と実在』 20

  第五章 運動、変化とその知覚

 

      (運動は不整合なものであり、変化のように根本的なものではない。)

 

 この章は多くの議論が以前の繰り返しになるだろう。私の喜びとするところではないが、読者を強くする試みである。変化が自己矛盾的な仮象だと確信を得た者は、多分、関心を引いたなににでも同じように向かっていくことだろう。

 

 運動は歴史の始めから厳しく批判されてきており、その防御に成功しているとは決して言えない。それらの批判が基づいている原理を簡単に指摘しよう。運動は、共通の時間、二つの場所で、動いているものがあることを含意するが、それが可能だとは思えない。運動が二つの場所を含むことは明らかである。それらの場所が継起的なことも同じように明らかである。他方、その過程が統一されていなければならないことも明らかである。動かされているものは一つでなければならず、時間も一つでなければならない。時間が多数の時間の集まりで、関係がなく、一つの時間の部分でないなら、どんな運動も見いだせないだろう。しかし、時間が一つなら、既に見たように、多数であることはできない。

 

 ごく一般的な「説明」は、時間と空間とを、文字通り<任意に>分割して対応する組に分けることである。この場合、経過はそれらの間のどこかにあると仮定される。しかし、理論的解決として、この考えは子供だましである。より大きな速度というのがこの場合まったく不可能になるだろう。無時間的な組の間にある経過は、既に見たように、実際のところ意味をもたない。これらの経過のまとまりが持続となり位置づけられる場所を、もちろん我々は知らされないし、知ることもできない。このまとまりのない集まりが動いている物体とどのように関係して同一化するのかも我々には理解不可能である。明らかになるのは、空間における運動が変化の問題のなんの解決にもならないことだけである。空間にさらなる細部をつけ加えても原理になんの光を投げかけることもない。しかし、他面では、変化の矛盾がより明らかになる。変化する事物の同一性の問題は思慮を欠くものでしかない。しかし、時間における変化は、その不整合とともに、空間にある運動の下に横たわるものである。これが擁護できないとすると、運動も即座に非難されるべきものとなる。