ブラッドリー『仮象と実在』 21

      (変化は我々のジレンマの新たな例であり、理解不可能である。)

 

 変化の問題は運動のもとにあるが、変化が根底的なのではない。一と他の、差異と同一性の、属性と事物の、性質と関係のジレンマに戻されるだけである。なにものかがいかに他のものであり得るかは、我々の努力をまったく受けつけないような問題である。変化は原則としてこのジレンマをほとんど一瞬たりとも越えることはない。不適切で面倒な問題をつけ加えるか、妥協しようと盲目的に試みることで益々混乱に陥るかである。繰り返しになってしまうが、この論点を明らかにするよう努めてみよう。

 

 変化がなにものかの変化でなければならないことは自明であり、それが多様性を含んでいることも明らかである。それ故、一つのものに二つのものを認め、再び前章の非難を受けることになる。そこで、こう区別することで自らを擁護しようとする。「確かに、どちらも認められるのだが、一のなかに二があるのではない。そこには関係があり、それによって統一性と多数性が結びつくのである。」しかし、我々の関係に関する批判は、あらかじめこの逃げ口上を破壊する。ある全体が関係と項に分解するとき、完全な自己矛盾となることを既に見た。どちらがどちらの一部分でもなければ、全体の部分でも、その全体でもないと正当に断定することができる。こうした要素を含めようとすることで、全体は自滅し、死のうちに破滅する。この普遍的法則を繰り返すのが目的なのではない。ただ、変化がこうした領域に入り込むことでいかに苦境に陥るかを見てみようというのである。

 

 なにかあるAが変化するならそれは永久的なものではあり得ない。他方、Aが永久的でないなら、この変化はなんだろうか。それはもはやAではなく、他のなにかである。別の言葉で言えば、Aを時間における変化から免除するなら、それは変化しない。しかし、それが変化を含むなら、即座にA1、A2,A3になる。我々に残されるのがこうした別のなにかなら、Aとその変化とはどうなるのだろうか。再び問題は次のようなものになる。Aの多様な状態が一つの時間に存在しなければならない。しかし、それらは継起的であるから、不可能である。

 

 始めに、Aを、時間の外側にあるという意味において、無時間的なものとしよう。変化の継起はこれに属すか、属さないかでなければならない。前者の場合、継起とAの関係はどういうものだろうか。関係がないなら、Aは変化しない。少しでも関係があるなら、Aに多様性を無理強いすることになり、それはその本性に合わず理解することができない。そして、この多様性は単に未解決の問題として残ることになろう。もし変化を取り払わなければ、無時間的なAと理解できない関係にある時間的変化を得るが、それはどうにもならない古くからの難問を提示するだけである。

 

 Aは時間系列のなかにあるものとして扱われなければならない。もしそうなら、問題はそれが持続を得るか、得ないかである。どちらを選択しても致命的である。もしある時間で、変化が必然で、一つの持続なら、それは自己矛盾で、というのもこの場合どんな持続も単一ではないからである。見せかけの統一は際限ない多数性に分裂し、そのなかに消え去ってしまう。持続の断片は、それぞれに以前と以後を含み、再度分裂し、幻影の諸関係でしかなくなる。別々なものの関係のなかに経過を位置づけようとする試みは希望のない不合理に導かれる。また、一つの持続をつくるために関係の多数性を理解できるように結び合わせるなど、どんな場合でもできるものではない。それ故、端的に言うと、変化に必要な時間が持続だとするなら、それは単一のものではなく、変化も存在しない。

 

 他方、変化が単一の時間に実際に位置づけられるなら、それは変化ではあり得ないだろう。Aは継起する多数性をもっているが、それらは同時に存在する。これが露骨な矛盾であることは確かである。持続がなく、時間が単一なら、それは時間などではない。この抽象的な点における多数性、以前と以後の継起について語ることは、考えることさえ不可能である。実際、最上の弁明はそうしても意味がないと言い抜けることだろう。しかし、もしそうなら、どんな仮定のもとでも変化は不可能になる。それは仮象以上のものではない。

 

 その主要な性格を見て取ることができる。それは、異なった点を結びつける必然性と不可能性の双方を含んでいる。こうした差異は、最初はじかに接していた全体のなかで始まる。しかし、全体にわたって始まるなら、それらは消失し破壊されてしまう。全体のなかでの存在は既に壊され、無に散らばっている。一般的な関係の形式、あるいはここでの特殊な時間の形式はごく自然な妥協点なのである。矛盾の解決はなく、我々は、むしろそれをひとまとめにして宙づりにする方法を求めているのである。どちらかの側面に眼を閉じ、帳尻を合わせるというのも一つの計略である。秘密のすべては、我々が用いることのできない側面を無視することにある。かくして、Aは変化すべきであり、両立しない二つの性格が一緒になければならない。継起する多数性が存在しなければならず、時間は単一でなければならない。別の言葉で言えば、現在でなければ、継起は本当の継起ではない。我々の妥協は、我々が自分たちの必要に応じて主にどの観点からこの過程を見、どの観点を敵意をもって無視--つまり、知覚できないようにしたり、知覚することを拒む--するかにかかっている。もし持続の一断片を現在で単一としたいのなら、分離に眼を閉じ、あるいはどういう風にか盲目となり、内容だけに赴いて、それを統一物とする。他方、この分裂以外のものならどんな点も容易に忘れられるということがある。全体としての変化は、これら二つの点の結びつきにある。両者を結びつけ、時間において顕著な単一性を強調し、難点は素早く入れ替えることで視野から追い出してしまおうとする。かくして、Aが変わると主張することは、一つのものが異なった時間に異なっているということを意味する。この多数性をAの質的同一性と関係させ、すべては丸く収まるように思える。もちろん、我々が知るように、ここには大量の矛盾があるが、主要な問題はそこにはない。主要な点は、ここまでしても、我々はAの変化に達していないことにある。異なった瞬間、多様な状態とのある種の関係--それがなにかを意味するのだとすれば--におけるAの内容の同一性はまだ我々が変化ということで理解しているものに至っていない。性質が一つであることが持続の統一を可能にするというのはほとんど取り組む価値もないことである。というのも、変化が存在するには、一つであることが多数性と時間的関係をもっていなければならないからである。別の言葉で言えば、過程そのものが一つの状態でないなら、瞬間はその一部ではない。もしそうなら、それらは時間において互いに関係することはできない。他方、Aはある時間の長さを通じてAであり続け、Aである限りにおいて変化しない。このように考えると、持続は現在で、経過を含んでないということになる。しかし、その同じ持続は、Aの変化する状態の継起としてみるなら、多くの断片から成り立っていることになる。他方、三度目になるが、この全経過は、一つの連続、期間としてみるなら、統一体となり、再び現在のものとなる。「現在という期間を通り過ぎるとき」と我々は勇敢にも言うかもしれない、「Aの経過は不変である。その成長率は一定で、現在において条件は同一である。しかし、ある期間の経過を通じて、Bの状態にあって無限に継起する差異化した現在が存在する。そして、時間において、Bの変わることのない運動とAの変化の健全な継起との一致が現在となり、運動か停止となってあらわれる。」これ程の誇張もないだろう。この言明は容易に見て取れる動揺を明らかにしている。我々の強調点は原則なしに、異なった領域にまたがっており、すべての観念は本質的にこの動揺に存している。首尾一貫した原理によって差異を結びつけようとすることが完全な間違いであり、発見可能な唯一の体系は、体系的に首尾一貫性を避ける体系である。ある単一の事実は違う側面から異なった風に見ることができるが、その側面は理解可能な全体には結びつかない。読者も首尾一貫した結合が不可能なことは同意してくれると信じている。変化の問題は、変化を仮象の地位に格下げしない限り、解決されないものである。