ブラッドリー『仮象と実在』 25

      (錯覚に基づく説明の試み)

 

 我々が原因においてもっているのは、新たな原則なき妥協、純然たる一時しのぎである。じきにそれは本性をあらわにする。原因は単なるAではない。それでは耐えきることができない。原因はA+Cである。しかし、この結合は意味がないように思える。我々が直面するのは関係の性質であり(第三章)、その帰結がもろく破滅的であることは既に明らかである。どんな具合になるか見てみよう。「A+CにBが続く」で、Cの付加はAと異なるか、異ならないかのいずれかである。まず、Aと異なると仮定してみよう。もしそうなら、Aは既に変わっていることになる。そして、因果関係の問題はまさにその原因の内部において始まってしまうことになる。AとCがA+Cとなり、AとCがどうかしてそれ以外のものになるという古い難問が始まる。我々はここでAに関わっているのだが、もちろんCに関わるのだとしても難点は変わらない。それ故、我々は修正せざるを得ず、単にAとCではなく、AとC+DがA+Cになり、それにBが続くと言うことになる。原因の内部において無限後退に陥っていることがすぐに見て取れる。原因が原因となるなら、そうなるにはなんらかの理論的根拠があり、それが無限に続くのである。

 

 もう一方の選択を受け入れてみよう。大胆にも、A+CがBの原因で、その関係はAにもCにも相違をもたらさず、結果にのみ関わるものとしてみよう。この結びつきがなんの相違ももたらさないにしても、結果にあらわされた相違の原因とされることは明らかである。しかし(原因を第一に取り上げると)、こうした要素の結合はまったく理解不可能であることが示された(第三章)。あくまで擁護しようとするなら、答えには二つの道しかない。一方の道は、それが事物に関わるものではないとするのか、単に実用に合わせた間に合わせと認めるかである。事物とともにあるもう一つの道を選び、弁明できるというなら、弁明させてみよう。我々の考えが首尾一貫していることを証明する以外に弁明は不可能である。だが、我々がその見解を躊躇する唯一の理由は、我々の見解が首尾一貫していないことにあるように思える。もしそうなら、確かにそれは我々の見解であるべきではない。結果についても、同じ推論があてはまる。異なったものの連続はまったく非合理的である。もしこの異なったものの連続を我々に帰し、事物に属するものではなく、我々の観点だとしても同じ結果が生じる。というのも、このように言うことは、実在においては差異がなく、因果関係もないことを正しくも認め、端的に言えば、因果関係が間に合わせで、単なる仮象であることに同意することだからである。我々はある程度まではこれに同意するが、それ以上の結論においては異なる。というのも、実在の世界が丸裸で、空虚であることを認める態度に長所を認めることが私にはできないからである。それでは存在の富を支えることも所有することもできなくなる。身ぐるみはがれ、一文無しになってしまう。