ブラッドリー『仮象と実在』 28

      (因果系列は連続的でなければならないが、連続的ではありえない。)

 

 余計なことではあるが、ここで、因果的な変化の連続から生じる一つの難点をつけ加えておこう。継起は、一方では完全に切れ目のないものでなければならないが、それでは不可能である。このジレンマは新しい原理に基づいているのではなく、持続の解決不可能な問題が当てはめられただけである。興味のない読者はとばしてもらっていい。

 

 我々の知覚で、変化は厳密に連続的ではない。持続がそのように我々にはあらわれないので、そうなり得ないのである。我々の能力がいかに向上したとしても、常にそれを超える部分があるに違いない。他方、分裂した持続について語ることはまったく擁護できないと思える。実際は、どちらでもない。我々が目にとめるものとは、それがなにを意味するにしても、ある時間を伴った出来事だと仮定される。他方、諸部分を含み、諸部分の多様な多数性さえある全体としての持続の断片を扱うとなると、別の面があらわれてくる。最終的な反省においては、それがどのようにあらわれるにしても、すべての変化は連続的でなければならないと認めざるを得ない。この結論は、いかなる状態も一瞬たりとも持続することはできないという原理を含むことはできない。同一物の何らかの持続がなければ、我々は意味のない混沌、あるいはそれさえももつことがないに違いない。既に見たように、状態は、我々が抽象できる程度には持続することができる。それ自体は変化しない部分的な状態、あるいは状態の一面を取り上げてみよう。一つの眼をそれに固定し、もう一方の眼を、なんの原則もないことは心配だが、それと共にある継起の方に向け、それが同時であるとしよう。こうした方法で、我々は持続の問題を実際的に解決しよう。A,B,Cと次々に持続する面がある。それに沿って変化はより微細に分割される。この変化の過程で、ある意味A、B、Cは変化し、別の意味では、持続の変化することのない断片となる。それらは自身において変わるのではなく、他の変化との関連において内的な経過をたどる。そして、この他の変化がある点にまで達すると、AはBに移り、やがてBはCになる。これが、私の仮定する、因果関係を連続的なものと考えるのに適した方法である。多分、次のような図を用いることができよう。

             X

            /|\

          /  |  \

        /    |    \

    A         B     C

   /|\      /|\   /|\

 A──A──A――B──B──B――C──C──C

 |  |  | | |  |  |  |  |

 ε── ζ── η――θ──ι── κ――λ──  μ── ν

 

ここでA、B、Cは持続する状態の因果的な継起である。ギリシャ文字は別の出来事の流れをあらわしており、それがA、B、Cの継起を実際には決定づけている。A、B、Cがいかに変わるとともに変わらないものであるかが理解される。しかし、ギリシャ文字はより多くのものをあらわしており、それを描ききることはできない。第一に、いかなる瞬間をとっても、そこには無数の出来事が存在する。第二に、それら自身持続の断片であり、A、B、Cと同様の難点がある。それぞれに一致しているのは出来事の継起に違いないが、読者はそれを好きなような性格で思い描くことができる。ただ、その出来事はより小さな出来事によって無限に分割されるのだということを心にとめておかなければならない。それ以上分割できない部分に達するまで進まなければならないのである。そこまで達することができるとするなら、因果関係がその成功とともに消え去っているのを見いだすだろう。

 

 ジレンマを簡単な形にすることができたと思う。(a)因果関係は連続的でなければならない。そうではないと仮定してみよう。そうすると、出来事の流れから切れ目のない部分、変化がないという意味での切れ目のない部分を取り出すことができるだろう。流れを広さのない線で断ち切ることができるとか、この分離によって流れにはなんの変更ももたらされないと言いたいのではない。あなたはある薄片をとることができ、その薄片には変化が含まれてはいないだろうと言っているのである。しかし、どんな薄片でも、分割することが可能で、持続を有しているに違いない。もしそうなら、原因は、ある数の瞬間の間は変わらずに持続し、それから突然に変わるものだということになる。それは明らかに不可能であり、なにがそのように変化できるだろうか。出来事の一全体を扱っているのだから、それ以外のものではない。だがまた、なんの変化もないものとして得たのであるから、それでもない。端的に言って、原因がどれだけ小さな持続の断片にでも変化することなくあり続けるなら、永久にそれは変わらない。結果に行きつくことは不可能であり、それ故原因などでは全くない。他方、(b)因果関係は連続的ではあり得ない。これは、原因が完全に持続を欠いていることを意味するだろう。それは継起を断ち切る線上の時間以外では存在できないだろう。この時間は時間ではなく、単なる抽象観念なので、原因がよりよい立場になることはなかろう。それは非実在、非存在で、世界の継起とはそうした非存在物で成り立っていることになろう。このことは、個体とは点と線と表面からできていると仮定することと同じである。ある目的のために有用な虚構であるが、虚構であることに変わりはない。原因は実在の出来事でなければならないが、実在たりうる時間の僅かな断片すらも存在しないのである。それ故、因果関係は連続的ではなく、そしてまた不運にも因果関係でもなく、単なる仮象なのである。

 

 読者は、我々がここで繰り返したのは古くからの時間に関する難問だということをすぐに理解されただろう。我々が見たように、時間は断片からつくられなければならないが、それは不可能でもある。多分、読者は、連続性と分離についてのうんざりするページが終わりに到達したことを残念とは感じないことだろう。次の章では幾分異なった事柄を扱うことになる。