ブラッドリー『仮象と実在』 29

  第七章 活動

 

      (本来的な〈所与〉であるかないかは見当違いな問題である。)

 

 活動が実在なのか単なる仮象なのかという疑問を投げかけたら、それは本来性をもち、究極的で、単一なものだという主張に出くわすことになろう。この主張は不正確で、まったく根拠がないと言えば私としては満足だが、ここでは不適切なものとして扱うことにしたい。もし活動の意味が検証に耐えず、理解可能なものと示すことができないなら、それは真の実在ではあり得ないだろう。本来性がないのか欠けているなら、どのような述語で述べても無意味だということに正当な根拠がある。もし活動が単一で、意味がないなら、既に扱った感覚や快感のような性質であるように思える。いや、違う、そうした意味で単一なのではなく、といって正確に合成物とも言えないのだという答えが返ってくるかもしれない。それは多様性として与えられる。それ自身は実在だが、その観念が擁護しがたいということもありうる。しかし、形而上学の仕事は確実に理解することである。なにかが考えられはしても、感じられはしないというなら、そのものは我々の手のなかでバラバラになっているのであり、一つの結論以外見いだすことはできない。その本性が非感覚的であるか、我々が間違った観念を持っているかである。後者を主張するものは、我々に正しい観念を提示すべきである--つけ加えるまでもなく、それは彼が進んではしたがらないことである。貧弱な言い訳は彼ら自身に任せておいて、事実の方に立ち返ろう。活動という語の用いられ方を調べてみると、結果は疑問の多いものではない。力、勢い、強さ、活動、これらの語は、確かに明確な理解なしに使われすぎている。しかし、分析の対象にできるようななんの意味も見いだすことなしにそれらの語を使う理性的人間も存在しない。もしそれが精査に耐えないなら、明らかに実在をあらわしていないのである。