ブラッドリー『仮象と実在』 30

      (時間における変化を含む意味合いをもつ。)

 

 強さ、力、勢いといった語には活動と区別されるようなある意味が存在する。それらは偶然的なものではなく、せき止められた生気や、非存在と存在との間の領域にあるなにかをあらわすために用いられる。このことをいま論じる価値はないと思うので、力は働いている力を、別の言葉で言えば、活動を意味するものとして先に進もう。

 

 この意味で要素となるのは、即座に明らかになるが、継起と変化である。すべての活動において、明らかになにかが別のものになる。活動は出来事と時間における連続を含んでいる。そして、この意味が光のもとにあらわになるや、我々の顔をしげしげとのぞき込み、隠れたりはしないということをつけ加えよう。あからさまに言うと、私はこの問題をどのように論じればいいのかわからないのである。時間系列を取り除いてしまうと、この語がどんな意味をもつのか私にはまったくわからない。もちろん、我々は持続する力や、それに従属はしても後に続くのではない結果の産出について語ることはできる。しかし、そのように語ってもそう考えることとは違う。力とそのあらわれという我々の思考の系列が継起として事実に移しかえられるのでないなら、意味は消え去ってしまう。我々に残されるのは、単なる共存と依存で、実体に従属するのか、属性が互いに支え合うのか、二つの属性をもつ実体があるかのいずれかである。なんらかの理論に影響されるか、助けられるかせずに、それ以外の見方をしようとする者がいるとは信じられない。私もこうした結論に終わってしまうのではないかと心配である。