ブラッドリー『仮象と実在』 31

      (自己原因的な変化である。)

 

 活動は、なにかが別のなにかに変わることを含んでいる。それで多くのことが明らかだと私は思うが、活動は単なる原因のない変化ではない。事実、既に見たように、それは考えることもできない。というのも、AbがAcになるには、Ab以外のなにかが必要だと感じられるからである。さもないと、完全な自己矛盾になる。かくして、活動の推移には常に原因がある。

 

 活動は原因のある変化だが、またそれ以上のものでなければならない。というのも、他によって変わるものは通常活動するものではなく、反対に受動的に動かされるものと考えられているからである。活動とは、むしろ自ら原因をもつ変化であると思われる。始まって終わるある推移が事物そのものの過程である、それが我々が活動と感じるものである。それはもちろん、事物の属性と考えねばならない。事物に属しているだけではなく、事物において始まり、終わるものと見られねばならない。あるものがこうした性質をもつとき、我々はそれを活動という。

 

 しかし、我々はここで隠喩に頼っていることに気がつく、あるいは気づき始める。それだけでは、そこで言われ、ほのめかされていることが疑わしいということにはならない。明らかなのはこのようなことである、つまり、過程の終結、帰結、あるいは結果は始めにある事物の性質の一部であるように思える、ということである。なにか外からつけ加えられていないだけでなく、ほとんど付加物を受けつけることはできない。少なくとも、その終結が事物の活動によると考えられる限り、最初から最後までそれは事物の性質であったのだと見なされる。かくして、それは、それが生じる前から終結であったのである。存在していなかったにもかかわらず、ある仕方でそこにあり、そうなった。観念である事物の性質が自己実現して、その過程が我々の意味する活動なのだと言えばいいかもしれない。観念は事物の精神にある観念である必要はない。多分、事物に精神はなく、意志をもつことはできない。また、事物における観念とは、我々の精神にある観念ではなく、我々がもつ観念は単に事物に関するものでしかない。このことは確かで、我々の意味するところはこの両極端の間にある。だが、中間のどこにあるのか、それがどう成り立っているのかは明確というにはほど遠いように思われる。しかし、前に進んでみよう。