ブラッドリー『仮象と実在』 32

      (受動性はどんなそしてどのように活動性と結びつくか。どんな場合であるか。)

 

 受動性は能動的な活動を含んでいるように思える。それは事物の変化であり、もちろん、事物は残り、新たな属性が加わる。その属性は、変化の前には事物がもっていなかったものである。それ故、本来属しているものではなく、移してこられた異質なものである。それは能動的なものから生じ、属性であったもので、その負担によって成り立っている。かくして、受動性は能動性なしには可能ではない。その意味は明らかにいまだ説明されないままである。

 

 次に、能動性がそれ自体で、受動性なしに存在しうるかと問うのは自然なことである。ここで、我々は更に不明瞭な領域に巻き込まれる。もし事物がいかなる根拠もなしに能動的になり始めるならそう言える。いわば、爆発し、それ自身の動きだけで内容を同時に産み出すような場合である。出来事であり、かつ原因の全くない変化だと言おうとしているのでは決してない。以前に同意したように、それは自己矛盾であり不可能である。それ故、事物はあるきっかけがなければ能動的ではないと言ってみよう。このきっかけは、他の好きなような呼び方で呼んでもらってかまわないのだが、事物のいまある性質以外のなにかで、本質に偶然的に関わるという意味で非本質的なものである。しかし、事物がきっかけの行為がないと行動できないなら、そのきっかけはなにか外からの行動によって伝えられることになる。しかし、これは既に見たように、受動性であった。そして、変化がきっかけによって生じる限り、どんな行動も受動的でなければならない。もし、その本性から生じる過程を我々が見るなら、その過程は活動である。他方、同じ過程がきっかけによって生じるのを見るとしても、活動はある。しかし、その活動はいまではきっかけに属しており、事物は受動的である。我々はばらばらな側面をもち、どちらの場合でもその存在は我々の精神に依存している。