ブラッドリー『仮象と実在』 33

      (条件と諸条件の総計)

 

 この曖昧さは、原因と条件との一般的な区別に見られるもので、このことはより詳しく調べてみる価値がある。どちらの要素も、結果を生み出すことにのみ必要だとされる。任意の場合において、どちらの用語を選ぶかはほとんど、あるいは全くの自由裁量に任されている。たまたまそれに続く過程の原因となったものをそう呼ぶのも珍しいことではない。物体は支えが取り払われると落ちる。しかし、多分、これを「原因」で語るよりは、ある種の条件として語るのを好む者の方が多いのではなかろうか。どちらを好ましく感じようが、満足できるのは明らかである。原因を「諸条件の総和」として定義することで明確にしようとする善意も、我々を啓発するところは多くない。「総和」という語はある意味を伝えようとしているように思われるが、その意味は言明されておらず、一般的に知られているかも疑わしい。さらに、原因がすべての条件づけを含むものならば、以前からの難点に出会うことになる。この原因は、持続のある部分において存在しないのであるから、非存在であるか、ある条件が変化の、活動の原因となるかである。しかし、もし原因が既にすべてを含んでいるなら、もちろん、利用できるようなものはなにもない(第六章)。この点を除いて、すべての条件が原因のなかにあり、それ以外にはなにもないというのはなにを意味するのだろうか。通常、ある出来事の「諸条件」と呼んでいるものが完全だと言おうとしているのだろうか。実際には、確かに、我々は存在のすべての背景を考慮に入れるわけではない。ある要素の集まりを切り離し、それらが生じるときには、常にこれこれのことが起こると言う。そしてこの要素の集まりを「諸条件の総計」と考えているのである。この過程は、残りの存在が十分な根拠のもとに、無関係だと言えるなら、事実上擁護できるだろう。無関係な全体は不活動なものとして扱うことができる。確かにそれはそれでいいが、それは実際にその全体がなにもしないと主張することとはまったく別のことである。そんな誤った抽象の仕方を正当化できるような論理が存在しないのは確かである。全世界の背景を適切な仕方で消し去ることなどできず、その結論が論理的でありうるとしても、現実的なものと考える必要はない。数多くの多様な事例をあげても、個別な事例をつけ加えることにはならないように、それぞれの目的について考えたとしてもそれ以外のなにがつけ加えられるものでもない。この教義を理論的に正しいものとするのはまったく不適切である。

 

 このことから直接に帰結されるのは、真の「諸条件の総計」とは、ある瞬間における世界のすべての内容を完全に含んでいなければならないということである。ここにおいて、我々は理論的な障害に突き当たる。内容というのは本質的に不完全で、「総計」とはまったく手にはいることがないように思われる。これはその限りでは致命的で、私もそう判断する。あなたがある瞬間における事実の完全な総計をもっているとすると、あなたはある結果により近づいているのだろうか。この全体は、「諸条件の総和」であり、続く出来事の原因であるだろう。原因をそれ以下のものと扱うことは正当化されない。ここで、もう一つの理論的な難問があり、それは、同じ原因が多くの異なった結果を生み出すような場合である。それをどう扱えばいいだろうか。それだけではなく、実際的にも同様のジレンマにであう。というのは、原因は、広範囲にそれをとれば、同じようなものすべての原因であり、特殊ななにかについて語ることができない。それほど広範囲にはとらなければ、それは総計ではなく、それ故原因ではない。ここまでくると、我々の教義を諦めなければならないことは明らかである。もしある個別な原因を発見しようとするなら(それ以外に発見はない)、我々は「総計」のなかである区別をしなければならない。そうなると、以前のように、あらゆる事例において、我々は原因の他に諸条件をもち、以前のように、その区別をもたらすような原則が求められる。私自身についていえば、適切な原則はなにも知らない、ということに戻るのである。この区別は、常にある目的に合うようになされているように思われる。我々の個別の観点に適用しているだけのようなのである。