ブラッドリー『仮象と実在』 36

      (事物は観念、そしてあらわれと同一性をもたねばならない。)

 

 私はすぐにある点に突き当たるだろう。存在する事物は、同一性をもっていなければならない。そして、同一性は、よく言っても疑わしい性格をもったものに思われる。もしそれが単なる想像物だというなら、事物そのものも実在であることはほとんどあり得ない。それでは、最初に、事物が同一性なしに存在できるのかどうか調べてみよう。こう問いかけることは、同時にそれに答えることでもある。実際、事物が存在せず、多様性を単一なもののうちに結びつけていないなら、それは時間の外側にあることになる。これは支持しがたいように思える。であるなら、事物は現在を超えた持続のなかになければならず、継起が本質的である。そうであるにしても、事物は変化の後でも同一でなければならず、変化はある程度は事物の属性でなければならない。原子の運動のような単純な例をとれば我々の目的には十分である。もしこの「事物」が動かないなら、運動は存在しない。しかし、もし動くなら、継起はその属性であり、事物は差異を同一性において結びつけていることになる。更に、この同一性は想像物であり、それは事物の内容、「事物について我々が言うことができること」で成り立っている。というわけで、原子が同一ならば、原子の過程の最後において疑問が生じる。生じた疑問はその性格に呼びかけることなしには答えられない。ある点においては異なっている--すなわち、場所の変化。しかし、別の点においては--その性格においては--同一のままである。そして、この点とは明らかに同一の内容である。原子は内容をもたないと異議を唱える者がいるとしたら、代わりに「物体」という言葉を使うようにし、いかなる質的な差異もなしに(右左のような)、どうやって原子を区別したらいいのか自分で決めてもらおう。そして、この同一の内容物は、所与の存在を超えているために想像物と呼ばれる。存在は現前としてのみ与えられるものである。他方、事物はその存在が現在を超え、過去にまで広がることにおいてのみ事物なのである。ここでは現前する経過における事物の同一性の問題については論じないが、このことについて我々の結論を期待する者がいるかどうか疑問である。

 

 つまり、識別しにくい同一性についての問題はここでは取り上げていない。私が論じているのは、事物に必然的な連続性が、性格の同一性を保つことのうちにあるように思われる、ということである。端的に言えば、事物は、過去にそうであったがために現在もそうなのである。この同一性の関係がどうして実在たり得るのか明らかではない。これは過去を現在に結びつける関係であり、明らかに事物に不可欠である。しかし、もしそうなら、事物は、少なからぬ意味において、自身の歴史の進行における関係だということになる。そして、事物がこうした包括的な関係であり、時間を越えでるものだと我々が主張するなら、我々は確かに、事物がその全体ではないまでも、本質的に観念であることを認めることになる。それは観念であり、現実の時間で実在となることのないものである。