ブラッドリー『仮象と実在』 38

 第九章 自己の意味

 

      (最終的に自己とはなにを意味するのか。)

 

 いまに至るまであげてきた我々の事実は、実体のないものであることが証明された。事物はばらばらになり、項を見いだすことのできない関係に砕かれてしまった。そして、恐らく我々にはある疑いが、病がかくも根深い以上、それを食い止めるようなものがあるのかという疑問が生じ始めている。第七章の終わりに我々は無機的なものを越えて自己にまでたどり着いた。多くの者の意見によれば、そこで我々の難問は終わりを迎える。彼らが保証するところによれば、自己は仮象ではなく真の実在である。しかも、それ自身が実在なだけではなく、言うならば、その実在性が境界を越えて広がり、自己以外のものも再建する。諸事実が安心して集まることのできるしっかりした核を与えるということである。あるいは、少なくともある型を我々に与えて、その助けによって我々は世界を理解することができる。そこで、この主張を真剣に調べてみなければならない。自己は実在で、実在の属性とされるようななにかなのだろうか。あるいは、以前に扱ったものと同様に、単なる仮象であり、所与の何ものかであり、ある意味では確かに存在しているが、正真正銘の事実というにはあまりにも矛盾が多すぎるものなのだろうか。私としては、後の結論を採らざるを得ない。

 

 このことを調べるには大きな障害がある。普通、人は自己というときそれがなにを意味しているか知っていると思っている。他のことでは疑問に突き当たることもあるが、ここでは安心のように思える。自己ということで、その存在とそれがなんであるかということを同時に理解していると思っている。もちろん、人の存在の事実はある意味ではまったく疑いがない。しかし、その存在が確かだという意味には、確かというにはほど遠い場合もあるのである。この問題に関心を払って、ある前段階の結論に到達できない者はいないと思う。我々が存在することはみんなが確信しているが、いかなる意味において、どのような性格をもって、ということになると、我々のほとんどが支えのない不確実性と、先の見えない混乱に巻き込まれる。そして、よく言われるように、我々の外にある事物よりも自己のほうがより明確だと言うとき、我々は自分が語っていることの意味を決して知っていない。しかし、意味や意義は形而上学の生命線である。もしなにひとつ擁護されるべきものが見いだされないなら、その失敗は問題を終わらせるのに十分である。不整合で理解できない意味をもつものは仮象であり、実在ではない。

 

 私はこの章のほとんどを使って自己ということで意味されるものを特定しようと努めねばならない。心理学の分野にまで入り込むことを余儀なくされる。実際、私はそれが形而上学にとって必要なことだと思っている。形而上学が心理学に基づいていると言っているのではない。そうした土台は不可能だと私は確信しているし、もし試みられたとしても、どちらの美点をももたない悲惨な雑種が生れるだけだろう。形而上学は断固たる分析を抑えるようになるだろうし、心理学は不熱心な形而上学に弁解の種を与えることになろう。そして、認知の理論についての科学など実際には存在することができない。しかし、その一方、心理学者の部分をもたない形而上学者も大きな危険を冒している。というのも、彼は魂に関する諸事実を取り上げ、研究しなければならないからである。もし彼が、それがどのようなものであるかを学ぼうとしないなら、危険は非常に深刻なものとなる。彼が扱う心理学的怪物は、疑いもなく、形而上学的な怪物でもあることは確実である。その存在が、仮定された事実だということでその怪物性が下がるというようなことはないのである。しかし、経験が示すところによれば、人間は、形而上学的であるときでさえ、ある点においては勇気に欠けている。そして、我々には、最終的には我々を魅了し、ときには我々にとって重要なことは確かにしても、怪物を扱うような余裕はないのである。しかし、私は、最も近い危険がもっとも見えにくいということについて神経質になりすぎただけかもしれない。