ブラッドリー『仮象と実在』 39

      (他を排除した身体としての自己。)

 

 身体と同一視される自己についてだけ言及することにしよう。我々の身体の知覚には、もちろん、いくつかの心理学的な誤りがある。そしてそれは、なんらかの直接的な提示によって、自己の真のあらわれとは有機体の存在なのだということを正当化しようとするときに形而上学的な形をとることになる。しかし、これらのことはみなそのままにしておこう。というのも、我々の到達した点には、おなじみの難点からの出口はないように思われる。

 

      (Ⅰ.ある瞬間の経験の全内容としての自己。)

 

 1.それでは、外にある物体を除いた上で、自己の意味を調べてみよう。最初に出てくるのはかなり明らかである。このあるいはあの個別の人間の自己とはなにかと問うことによって、私は彼の経験の現在の内容を調べることになる。ある瞬間における人間の切断面を取り上げてみよう。感情、思考、感覚のかたまりがあって、それは事物や他の人間や自分自身からきたものである。もちろん、それにはすべてのものに関する彼の観点や望みも含まれている。自己と非自己のどちらにも分けることのできないあらゆるもの、端的に言えば、このあるいはあの瞬間における人間の魂の総体的な中身、それがあるときにおける個人とはなにかと問うときに理解されるものである。原則的にここに難点はないが、当然のことながら、詳細を(詳細として)扱うことはできないだろう。我々の現在の目的には、こうした意味では見込みのないことが明らかである。