ブラッドリー『仮象と実在』 40

      (Ⅱ.経験の平均的な内容物としての自己。)

 

 2.ある瞬間における人間の内部にある集合体では、自己とはなにかという問題に対する回答として満足のいくものではない。自己は、少なくとも、現在時を越えた何ものかでなければならないし、相矛盾する変化の系列を有することはできない。そこで、我々の答えを変え、ある一瞬における集合体ではなく、恒常的で平均的な集合を自己の意味だとしてみよう。以前のように、人間に関する部分だけを完璧に切り分け、心的な内容のすべてをあらわにしてみよう。そして、別の時間におけるその部分を保持し、それ以外の部分は取り除いてしまおう。残っているのが彼の経験を満たす標準的で通常のもので、それが個人の自己である。この自己には、以前と同じように、知覚された環境--端的に言えば、自己に対面する非自己--が含まれているが、今度の場合、一般的で標準的な非自己しか含まれないだろう。そして、それは個人の習慣と彼の性格を決める諸法則--それがどんなことを意味しようとも--を含んでいなければならない。自己とは、彼がある振る舞いをする限りにおいては、振る舞うときの普段通りのやり方、普段通りの事柄に対する振る舞いであろう。

 

 我々は、ここで本質的な自己と偶然的な自己とを区別しようとしているが、まだその地点にまでは到達していない。しかしながら、我々はある瞬間、あるいは継起する瞬間における個別的なものすべてを自己として残し、そこに個人の通常の構成要素を見いだそうとしている。人間を通常の自己たらしめるものはなんだろうか。それは習慣的な性癖や内容であり、日ごと、時間ごとの変化ではない、と我々は答えた。それらの内容とは、単に人間の内的な感情でも、自己としての内省でもない。それは、人間をいまあるようにしているのが関係である限り、本質的に外的な環境のなかで成り立っている。というのも、もし我々が人間をある場所と人々から切り離そうとするなら、彼の生涯を変え、彼は通常の自己をもたないことになるからである。更に、この習慣的な非自己--という表現を使うとすれば--は人間の生活の個人的な部分にまで入り込んでいる。恐らく、妻や子供やある種の環境は、もし破壊されたとしても、もし人間の自己が根本的に変えることができないものなら、なにか他のもので埋め合わせることはできないだろう。それ故、こうしたものは個人的に必要な構成要素だということができる。つまり、その曖昧で幅広い性格のためではなく、このあるいはあの個別の事物の特殊性のために必要なのである。しかし、通常の自己の他の部分は一般的に必要なものだけで満たされている。彼の通常の生活はそうした性格、つまり、ある制限のなかで変化する数多くの細部で成り立っている。彼の習慣や環境の主要な輪郭は同じままなのだが、その内部のある特別な部分だけが大きく変わるのである。人間の生活のこの部分はその標準的な自己のために必要なのだが、もし一般的な型が保持されると、特殊な細部は偶然的なものとなる。

 

 恐らく、これは人間の通常の自己についての公平な考えではあるが、理論的な難点にはなんの解決にもなっていないことは明らかである。我々が辿ってきたことによると、人間の真の自己は、絶えず変化するものとの関係に依存することはできない。絶えざる変化とは単なる言葉ではない。人間の生涯には、取り戻すことのできない変化が存在するからである。喪失や死や愛や流浪が生の流れを変えたとき、文字通り、彼は以前の彼ではないのではなかろうか。そして、我々が諸事実を見やり、ゆりかごから墓場までの人間の自己を辿ってみると、標準的な自己など見いだすことができないのである。ある時期に通常の自己は別の時期では通常ではなく、矛盾する心的な内容を一つの集合に結びつけることなど不可能である。そこで、我々は人間の自己を単なる歴史として受け取るのか、しかしもしそうなら、どうしてそれを一つのものだと言えよう。あるいは、ある時期に探求を制限し、もはや単一の自己など存在しないとするのか。あるいは、最後的に、自己を人間の通常の心的構成要素から区別しなければならないようになるか、である。我々は本質的な自己を見いだすことによって、個的な自己に到達するよう努めなければならなくなる。