ブラッドリー『仮象と実在』 41

      (Ⅲ.本質的自己。)

 

 3.それでは、以前のように、人間の心をとり、その調度と内容とを調べてみよう。我々はその一部には自己があり、それが一つのものであることを見いださなければならない。我々が知る限りでは、ここで一般的な観念の助けを求めることはできない。しかしながら、感情の内的な核、体感と呼ばれるもののあるところが自己の土台となっているように思われる。(1)

 

*1

 

 しかし、第一に、この内的な核はどんな線を引くことによっても、人間の標準的な自己から切り離すことはできない。第二に、その要素は多様な源からきている。あるものは、他の部分と切り離せるわけではないが、ある種の自己でないものとの関係を含んでいるだろう。個人というものが、周囲の状況からくる変化によって完全に不安定になってしまうものなら、その変化は病気や死さえも引き起こすような厳しい自己疎外の感情を産み出すだろうし、我々は自己が壁によって守られていないことを認めなければならなくなる。そして、本質的な自己が終わるところから偶然的な自己が始まる、というのでは答えのないなぞなぞのようなものである。

 

 問いに答えようとすることは致命的なジレンマに悩まされることでもある。変化することのできる本質をとれば、それは本質でもなんでもない。より狭いなにかに立脚すると、自己は消え去ってしまう。決して変わることのない自己の本質とはなんだろうか。幼児期と老年、病気や狂気はそれぞれ新たな特徴をもたらすが、他のものは持ち去られてしまう。実際、自己の変わりやすさに制限を設けることは困難である。疑いなく、ある自己では滅びてしまうような変化を耐えられるような自己もある。しかし、その一方では、ある人間がもはや彼自身ではないと我々が認めざるを得ないような点がある。幻影に我を失い、記憶を喪失し、雰囲気は変わり、病んだ感情に支配されてしまったような場合、その自己は我々の知っていた自己だとまだ言えるのだろうか。そうだとしてみても、あなたが示すことができないのは、決して何ものにも侵されるようなことのない地帯、触れられない点である。その地点を明らかにするよう求めようとは思わないのは、それが不可能であることを私が確信しているからである。しかし、このジレンマの反対の面にあなたの注意を向けるようにしてみよう。この狭く変わることのない感情や観念、「空からの影響に盲従する」ことのないしっかりとした本質、この惨めな小片、貧弱な原子、些細なあまりに危険にさらされているもの--あなたはこのむき出しの断片が本当に自己だと言おうとしているのだろうか。この仮定はまったくばかげたものであり、問いかけは答えを必要としていない。自己が変化することのない点にまで狭められると、この点は真の自己以下のものである。しかし、より広くなると、それは「なじみのない結果へと転換する」ようなある「様相」をもち、それ故一つの自己ではあり得ないのである。謎は我々が解くには難解すぎる。

*1:(1)より詳しいことは『マインド』12号p.368以降にある。私は、観念 が内的な自己の部分をなすのではないと言おうとしているわけではない。ここで、 催眠術に示唆されるような奇妙な自己を考える者も当然いるだろう。