ブラッドリー『仮象と実在』 42

      (人格の同一性。)

 

 我々は個人の同一性の問題に行きついたわけで、自己というときその意味を知っていると思っている者は誰でもよいのでこの問題を解決してみてほしい。私には解決不可能に思われるが、それは、問いかけられた問題が本質的に答えることのできないような問題だからではない。この失敗の真の原因はここにある--つまり、なにを意味しているか知らないような問題、その意味が恐らく間違ったことを仮定しているような問題を問いかけることに固執しているのである。第三章で見たように、同一性の探求にはあなたがどういう観点から尋ねているかが確かに最も重要なのである。ある事物は、見方によって同一でも異なってもいる。それ故、人格の同一性については、主要な点は人格の意味を確定することにある。その点についての我々の観念が混乱しているからであり、そのままではそれ以上の結論に行きつくことはできないからである。

 

 一般的な見解では、人間の同一性は主にその身体にあるとされている。(1)十分な考察を加える前に、重大な点がある。身体は同一だろうか。それは連続的に存在しているのだろうか。このことについて疑いがないなら、なにが侵入し感染するにしろ、人間は同一であり、個人の同一性を保持すると仮定されるだろう。しかし、もちろん、既に見たように、身体の同一性はそれ自体疑問の多い問題である(p.73)。そのことを離れても、単なる有機体の単一性が個人の同一性を確定するとは非常に未熟な考え方に違いない。自己が身体であると主張する者さえほとんどいないのである。

 

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 では、心的な連続性を必要条件のうちに加えれば、更に先にまで進むことになるのだろうか。明らかに、心的な流れに裂け目がないのかどうかは、知られていないし、決めることができないように思われる。表面的に考えれば、睡眠などの間には少なくともそうした中断が可能ではある。もしそうなら、疑わしかった連続性は、同一性の証明に使用することはできない。更に言えば、我々の心的な内容が多かれ少なかれ変化しうるものなら、中断が単にないからといって同一性を保証するに十分だとは考えることができないのである。私が判断する限り、通常、個人の同一性には、連続性と性質の同じであることの双方が必要とされる。しかし、それぞれどれほどの度合いで必要とされているのか、二つはそれぞれどのような関係にあるのか--その点について私は混乱以外にはほとんど見いだすことができない。このことをより詳しく調べてみよう。

 

 我々は多分、一つの自己を一つの経験と理解している。それは、外側にいる観察者にとって一つであるのか、問題の自己の意識にとって一つであるのかを意味し、後者の単一性は観察者につけ加えられるものなのかそれとは別のものとしてある。自己はその限界内において性質が同一でなければ単一ではない。しかし、既に見たように、個人が外側から見られるとき、変化が生じないような、それでいて真の自己をを包むのに十分な限界を見いだすことは不可能である。それ故、外側からの観察者にとってしか同一性が検証されないのならば、ときに、人間の生涯はいくつかの自己の系列であるのは明らかであるように思われる。しかし、継起が行われる場所で差異の点がどこにあるのか、どういう原則でそうなるのかは定義できないように思われる。この問題は非常に重要だが、結論はもしあるにしてもまったく任意であるように見られる。しかし、外側の観察者の観点から見ることをやめれば、なんらかの原則を発見できるかもしれない。試してみよう。

 

 判断基準として記憶をとろう。自身を記憶する自己はその限りでは単一である。そこに個人の同一性がある。記憶はそれ自身である意味完全であり、いわば何ごとでもできるものと見なすことで我々は自分の説を強化したいと思うかもしれない。しかし、もちろんそれは全くの間違いである。記憶はある特殊な複写の応用で、通常の心理学に例外的な不思議をあらわすものでもなく、他の働きに見られる以上の大きな難点をもつものでもない。私がここで強調したいと思っているのはその限界と欠点についてである。広がりをとっても長さをとっても、あなたは、それが単一性というには大きく欠けたところがあるのを見いだすことになる。我々が語っている一つの記憶は、我々の多様な生活にある多くの側面に対応するには弱すぎるし、他の側面については不釣り合いに強い。それ故、むしろ隣り合った記憶の束があり、ある部分ではそれは結びついていないように思われる。ある時間について我々の思い起こすことのできるのが断片的であることは確かである。我々の生にはまったく失われてしまったこともあるし、弱々しくしか呼び起こせないものもある。記憶が最上の状態にあってもこうである。そうでなければ、どれほどの欠損があるかわからない。束になった何本かの糸が欠けていたり弱かったりするだけではなく、束そのものが失われることさえあるのである。眠っているとき、薬の影響があるとき、なんらかの病気のときの我々の生の断片は表象されない。それにもかかわらず、疑いもなく、流れは連続的なものとしてあらわれる。事態が更に進み、病のせいで想起が部分的で歪んだものになったとしてもそうである。いやむしろ、ある一人の人間に、二つの分離した記憶の周期的な交代があるときにも、その本性を保持し、同一性を主張するような働きがあるのである。心理学はそれがどのようになされるか説明している。記憶は現在という基盤の複写から成り立っている--その基盤は自己-感情からなると言われている。それ故、この基盤が生涯を通じて同一である限り、一般的に言えば、一度でもそれに結びついたものは何でも思い起こすことができる。そして、この基盤が変わったとき、我々はその過去の出来事とのつながりが、豊かさや強さにおいていかに曖昧に変わるものであるかを理解する。同じ理由によって、自己-感情が一般的に容認される限界を超えて変化すると、過去の複写に必要とされる基盤が取り去られる。そして、異なった基盤が交互にあらわれるような場合、我々の過去の生は一つの自己としてではなく、多様な自己としてあらわれる。もちろん、こうした「再生された」自己は、相当部分において決して過去には存在しなかったものである。(1)

 

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 ここで、その同一性が、様々な事実に直面した際の単なる記憶だけで成り立っているような人間を呼び出し、彼がそれをどのように理解しているのか示してもらうことにしよう。彼が個人の同一性には様々な程度があることを認めないにしても、生涯において我々が一つの自己以上のものをもつことができることは少なくとも否定できないことは明らかである。更に言えば、彼が過去との自己-同一性を捉えることができるとしても時々のことであり、それは他人にはまったく捉えられないものである。こうした状況において、自己がどうなるかを見て取るのは容易なことではない。しかしながら、更に進んでみよう。怪我で手術をしたときに無意識の状態が続き、心的な生活が怪我した時点から再び始まるというのはよく知られたことである。さて、自己がいまにあるという条件で思い出すというなら、同じ性質をもち、現在において回想される同じ過去をもつもう一つの自己をつくることが可能なのではないだろうか。一つつくることができるなら、二つや三つなぜつくれないことがあろう。それは現在においてはばらばらで、外的な諸関係に従って性質が異なっているかもしれないが、それぞれが同じ過去を記憶し、それ故、ほとんど同じものである。どうしてこうした仮定が理論的に不可能なのか私にはわからない。以前に明らかにしたように、自己は単なる記憶だけでは同一とは考えられず、記憶が誤りでないと考えられる限りにおいて同一なのだと認めるのが助けとなるかもしれない。しかし、このことは、同一性というのは最終的には過去の存在に依存しなければならないもので、単に現在の思考だけでは維持できないと認めることになる。そして、一般的な見解によれば、ある程度の、あるはっきりしない意味での連続性が個人の同一性には必要なのである。瀕死の状態から蘇った者は確かに同一だろうが、彼の曖昧模糊とした食、半存在といった状態について我々は意味のあることをなにも言うことができない。同じような人間が時間の途切れの後に新たに創造されたとしたら、二人の人格を認めるには不十分かもしれないが、一人であるには多すぎると我々は感じることだろう。かくして、明らかなのは、個人の同一性にはある連続性が必要だが、どれだけ必要なのかは誰にもわからないようだということである。実際、もし我々が曖昧な文章や意味のない一般化に満足できないなら、最良の方法は問題を問いかけないことだとすぐわかる。しかし、問いに固執するなら、こうした結論が残されているだけのようなのである。個人の同一性とは主として程度の問題である。自己のある点に制限すれば問題は意味をもつだろうが、ここでも、限定は観点の任意の選択によってなされるだけなのである。どの場合においても、最終的にどこに制限をおくのか、はっきりした原則はない。そして、ある自己の全体的な同一性というのは意味がないゆえに解決することができない。繰り返すが、この問題は、自己というのがなにを意味しているのか明確な観念を得るまではまったく無意味である。ある人間がこの点、あるいはあの点において、そして、ある目的において同一かどうかをもしあなたが尋ねるにしても、そのとき我々が互いに理解し合っていないなら、我々がいるのはまだ理解の途上だと言える。私の見解では、理解が得られたときでさえ、多かれ少なかれ協議や調整によって始めて目的に達するだろう。尋ねられた問題の一般的で十分な答えを探すのはキマイラを追いかけるようなものである。

*1:(1)『隔週レビュー』の228号、820ページで、私はこの問題について更 に論じた。

*2:(1)催眠術によって示唆される自己と再び比較せよ。