ブラッドリー『仮象と実在』 46

      (それぞれが具体的な集合である。)

 

 主体と対象が内容をもち、実在する心的な集合であることは私には明らかなように思われる。自我というのがこの、あるいはあの心的要素によって本質的に説明されるようなものでないということがしばしば語られるのは私も知っている。そして、ある用法ではこの種の言葉が擁護されることを私は否定しない。しかし、ここで考えているように、我々の考えているのが、ある所与の時間において魂に存在するのが見て取れる、対象と主体の関係ということで我々に理解されていることならば、問題はまったく変わってくる。自我が具体的な心的中身以前の、あるいはそれを超えたなにかだというのは、全くの作り事、怪物であり、どんな目的があるにしろ認められるものではない。このことは観察によって確かなものとなるだろう。知覚でも何でもお好みの事例をとってみれば、対象と主体との関係は事実として見いだされる。そこでは、対象が、いずれにしても、具体的な現象であることを否定する者はいないと思われる。それは心的な事実として、あるいはそのなかに存在するという性格をもっている。このことから主体のほうに目を向けたとき、それ以上の疑いの種があるだろうか。どの場合においても、他の心的存在はなくとも感情の集合が含まれていることは確かである。私が見る、知覚する、あるいは理解するとき、私(関係の私の側)は明白であり、多分痛々しいまでに具体的である。そして、私が意志し、欲望するとき、自己が特別な心的事実でないとするのは確かにばかげたことだろう。明らかに、我々が見いだすことのできる自己はどれも心的な存在としてなんらかの具体的な単一の形式をもっている。そして、それを離れた場所、あるいは背後にあるなにか(いま、あるいは任意の時間において)としたい者は、観察からその例証を得ることがないのは明らかである。彼は事実のなかに形而上学的キメラを導き入れているのであり、どんな意味でもそれは存在せず、なんの働きもすることができない。たとえ存在するにしても、それは無益よりもさらに悪いものだろう。