ブラッドリー『仮象と実在』 48

      (疑わしい事例。)

 

 読者は私が守っているある点に気づかれたかもしれない。その点とは、非自己と自己の内容を相互交換する上での限界点である。私は一瞬たりともその限界の存在を否定することはない。私の見解では、あらゆる人間には対象とは決してなしえないし、実際的にそれが不可能な、内的に感じられる核とその要素が存在することは可能であるばかりか、信じる根拠のあるものでもある。当然体感にはそうした特徴があり、深く根づいているのでそれを切り離すことに成功することはない。そして、それらを非自己と言うこともできない。過去においてさえ、我々はその特質を区別することができない。しかし、ここにおいても、障害は実際的で、感覚の曖昧さにあり、その本質にあるのではないと私は見なす。(1)そして、快感と苦痛は本質的に対象となり得ないという主張にはほとんど気をつけることはないだろう。この主張は理論の苦境から産み出されたものであって、事実の基礎づけを欠いており、無視することができる。しかし、決して非自己とはならない要素があることを信じる我々の理由は、我々の分割されない核にある剰余の感覚にある。私が言っているのはこういうことである。我々は内的な感情の固まりを分解することができ、そこに多くの要素を認めることができる。そして、他方、我々の感情は空っぽになることのない周辺識域を超えたものが含まれている。(2)感情は周辺識域を含むが、一般的な周辺識域の観念としてそれは対象となることができるが、その特殊性においては対象とはなり得ない。しかし、時折、この周辺識域は浸食される。そして、我々は、その本性上、非自己の侵入を堅くしっかりと制限するような点を想定するようなほんの僅かな根拠すらももっていないのである。

 

 

*1

 

 

 もう一度非自己の側に移ると、私は非自己の内容のすべてが単なる感情となり、背景にとけ込んでしまうと主張しているのではない。実際には決してそのようにはならない内容があるだろう。さらに、自己に対立する以外の方法では存在することのできない思考の産物が存在するかもしれない。私はそれを否定はしない。しかし、それ自体我々を困惑させる自己感覚のなかに一般的に思考の産物が存在するかどうかは疑問が残るということだけは言っておこう。私は結論に到達するが、一般的な帰結を強調するだけで満足することにしよう。自己と非自己の領域には、お望みなら、相互移動が不可能な特徴が認められる。しかし、その量はあまりにも僅かであるので、自己や非自己を特徴づけ構成することはできないのである。それぞれの要素の大部分は相互交換することができる。

 

 この地点において、いまいっている自己の意味と以前の意味と一致しているのかを調べてみるなら、答えは確かである。というのも、心的な個人に含まれているほとんどすべてのものはあるときには自己の部分であり、あるときには非自己の部分であることは明らかだからである。また、思考対象として、意志の対象として自己に対立して存在することのできない人間の本質を見いだすことも可能ではない。もし見いだされたとしても、その本質はある残余であって、個人をつくりあげるにはあまりに不十分なものであろう。そしてそれは、致命的な不整合性を受け入れることによって始めて具体性を得ることができる。内的な意志というのはそれ自体で反省を強いるには十分である。自己を好きなだけ深く内部にあるものと取り、中心に狭めることもできる。だが、その内容は自己に対立する場所をとり、あなたはそれを変えようと望むことができるのである。ここでは確かに、自己を究極的に閉じこめることや自己だけが存在する排他的な場をつくることができなくなっている。というのも、自己はある瞬間には個の全体であり、その内部に対立者やそれとの緊張関係が含まれている。そして、再びそれは一つの対立者であり、対立するものによって制限され、それに戦いを挑む。

*1:

(1)それを分析することはほとんど不可能だが、我々の感情的な心持 ちは対象 を美的に見ることもできることに注意せよ。

(2)この周辺識域の存在がどのように観察されるかは、ここでは議論 すること のできない問題である。主要な点は、我々が感じる自己とその 前にある対象との 不一致を感じとる我々の能力にある。この、自らの 反省と対象をつくりだすこと が--もちろん、曖昧な形のものなら、 過去の感情において常に可能なのだが--我々に還元されることのない 残余という観念を与えるのである。不一致を感じ取るこの同じ能力が 過去と現在の感情の相違や同一性を信じる根拠となる。しかし、この議 論の詳細は形而上学に属することではない。