ブラッドリー『仮象と実在』 51

      (Ⅶ.単なる自己としての自己。)

 

 (7)我々が見過ごすことのできないもう一つの自己の意味が存在するが、いまはそれについて僅かに言及するだけで十分である。(1)私が言おうとしているのは、自己が「単なる自己」、「単純な主観」と同一視されるような場合についてである。この意味を一般的に確定するのは難しいことではない。個人の心的な内容で、ある種の働きには関わりをもたないある部分のすべてが単なる自己として働くものである。かくして、思考においては私の心にあるすべて--問題となっている思考に役立たないすべての感覚、感情、観念--は非本質的である。そして、それが自己なら、単なる自己である。道徳や美的感覚においては、そうした過程(ある過程をとるというなら)以外にあるものは、過程にある「対象」と関わらないならば、単なる「主観」である。心的な個人のどの部分でもありうる単なる自己は、いま問題になっていることからすると、否定的にしか受け取れない。少なくとも関連がなく、もっと悪い可能性もある。

 

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 一般的に言えば明らかな意味があるが、我々が直面している難点にはなんの助けにもならないだろう。留意すべき点は、一定した適用がされないことである。ある目的にとって「客観的」で本質的であることは、他の種類の目的にとっては関係がなく「主観的」であるかもしれない。このことは同じ種類の事例の間でもある。例えば、ある道徳的行為に本質的な特徴は別の行為では意味がないかもしれず、それ故に単なる私個人の見解であるかもしれない。端的に言って、我々が考慮するその時々の目的によって「客観的」と「主観的」が変化しないようなものは存在しない。ここで言われている自己は偶然的な自己を意味している。この意味を前の意味と比較してみると、それらが一致しないのは明らかである。それは広すぎるし、また狭すぎる。広すぎるというのは、本質的にはすべてがそこに含まれてしまうからである。狭すぎるというのは、それをある種の体系に結びつけようとすると、すぐさま単なる自己として除外されてしまうからである。それは単に感じられるものではない。というのも、本質的に否定によって限定されるからである。それは、単なる感覚を越えたなにかに対立するものとして、残余として外側に残る。望むなら、それを対照的にただ単に感じられたものと呼ぶこともできる。しかし、そのように直接的に存在するものとして考えられるなら、感覚のもとにすべての心的な事実を含めなければならないだろう。しかし、ここではこれ以上この点について考える必要はない。



 簡単にこの章の結論をまとめてみよう。事物の本性について我々がもっている観念--実体と属性、関係と性質、空間と時間、運動と活動性--はその本質において擁護できないことを見いだした。しかし、我々は自己が混沌に秩序をもたらすものだという噂を聞きつけた。そして、まず第一に、この言葉がなにを意味しているのか知りたいと思った。この章は多すぎるくらいの答えを与えてくれた。自己は多くのことを意味し、それらはひどく曖昧であり、適用に際して常に変動していて、我々は勇気づけられているとは感じられなかった。まず、人間の自己は想像による断面図をつくることで発見できる現在の総体的な内容であるとされた。あるいは、それは我々が気質と呼ぶようなものとともに見いだされる標準的な内容であるかもしれなかった。このことから、我々は自己を自己の内部にある本質的な点あるいは領域として探ることになった。そして我々が発見したのは、我々が実際にはそれがなんであるかを知らないということだった。個人の同一性のもとで、争い合う観念の混乱した集まりを考えているのだと理解されることになった。自己は興味深いということだけで、満足に証明されはしなかった。このことから、我々は非自己に対立するものとして自己を区別し分離した。ここで、理論的、実際的関係において自己は固定した内容をもたないことがわかった。あるいは、もしあるとしても自己を形成するに十分なものではない。この関連で、我々は活動性の知覚の起源を認めた。最後に、我々は他の用例とは一致しない自己のもう一つの意味に光をあてた。そして、我々はそれが、心的な事実がある目的に用いられるとき、その外側にとどまり続ける心的な事実を指すものだということを見た。この意味において、自己は使用の欠如として否定的に定義される未使用の残余であり、肯定的にいうと、単なる心的存在の感覚における感情だということになる。結局、この論題に本質的に収まるものも、収まらないものもなかったのである。

*1:(1)第十九章を見よ。