ブラッドリー『仮象と実在』 53
((a)感じとしての自己は幾つかの理由から擁護されない。)
この問題は、新たな観点をもたらす特殊な経験を見出す可能性をあらわしているように私には思える。もちろん、自己が新たな問題をもたらし、複雑さが増すことになるのは認められる。議論になっている論点は、それが同時に、実在についてのすべての難問を解く何らかの鍵を与えてくれるかどうかにある。それは、どのように多様性が調和するかについて我々が理解する助けとなるような経験を与えてくれるだろうか。あるいは、それに失敗し、そうした理解に必要なものを除去してしまうのだろうか。私はどちらの問いにも否定をもって答えられるに違いないと確信している。
(a)単なる感情、探求をここから始めることにするが、感情では我々の謎の回答にはならない。感情を十分低いレベルでとれば、多様性の統一があり、矛盾がないと確かに言うことができる。そこには関係も項もなく、他方において、単純である以上の現実的な事実として具体的な全体が経験される。そして、この事実は、我々の自己を理解させるものである、あるいは、少なくとも、単なる知性による批評よりは優れていてそれを越えたものだと主張されるだろう。それがそのようなものだとは認められようし、その実在は知性によっても他に類のないあらわれとして認められるに違いない。
しかし、こうした主張は支持できない。まず指摘できるのは、感情がもしあらわれであるにしても、全面的に自己のあらわれであるのでも、あるいは特別に自己をあらわすものでさえないということである。そこで、二つのうちのどちらかを選択しなければならない。そうした不整合を無視しうるに十分な程の低みには下りないか、あるいは主体と対象がいかなる意味でも区別されないようなレベルまでに達するかだが、当然そこでは自己もその対立物も存在しない。感情が直接的な表象としてとられるなら、そのほとんどが後に環境となるものの特徴を備えているのは明らかである。そしてそれらは後に自己となるものとひとつで分かつことができない。それゆえ、感情は宇宙の他の要素と区別されるような自己の唯一無比な、あるいは特殊なあらわれとは成り得ないのである。たとえ、感情を、誤ってはいるが、快や苦痛と等しいものとして用いるにしても(1)我々は結論を変える必要はない。この点については、当然多くの教義による主張があるが、どの議論も真剣な吟味に耐えるようなものではない。ある快適な感情があったとして--例えば暖かさ--どうして快の側が自己に属し、感覚の側が非-自己ということになるのか(心理学的あるいは論理的に)私にはまったくわからない。事実に即するなら、はじめにはそうした区別はまったく存在しないことは明らかであるように思われる。そしてずっと後の段階になっても、非-自己のなかに元々あった快や苦痛の要素が保持されていることがあるのもまた明らかである。そこで、我々は次のような結論に至らざるを得ない。快と苦痛がもっぱら自己に属し、非-自己とは区別されるという教義は形而上学的にはほとんど使用する価値のないものである、と。この教義自体がまったく根拠のないものである。最初に自己と非-自己が存在するということさえ真実ではない。そして、たとえ快と苦痛が後に自己と非-自己との区別の根拠となる主要な特徴だということが本当だとしても、それらが対象に属さないというのは誤っている。
しかし、我々がこの誤りを去り、再び差異がないという意味での感情に戻ったとしても、そこには我々が求めているような知識がないと見ざるを得ない。それは実在を捉えるには余りに不完全な見解である。第一に、その内容と形式とが一致していない。そのことは、感情が瞬間毎に変ることで明らかである。そのとき、我々の前に調和をもってひとつのまとまりとして現れるはずの事物は、明らかにその内部で矛盾したものとなる。内容はその本質的な関係性を明らかにする。つまり、事物は現にあるようであるために、自身以外の何物かに依存している。感情は、単純ではないにしても、すべてがひとつとなり、自ら囲い込むものであるべきである。その本質には、異なった存在に従属し、関連する事物が含まれるべきではない。それは実在であるべきで、その意味で部分的にも観念的であるべきではない。そして、直接性の形式においてあらわれるものには、この自律して存在する性格が含まれている。しかし、変化において、内容はこっそりと去り、なにか別のものになる。かくして、再び、変化は必然的で、存在に含まれたもののように思われる。変りやすさというのは、我々が経験する感情における事実であって、決して途絶えることなく続いている。そして、もし我々がある瞬間における内容を調べてみるなら、それが自律して存在するものとしてあらわれているにしても、深いところで関係性に侵されていることに気づくだろう。そして、このことは、まず変化の経験において、後に反省において視野に入らざるを得ないだろう。第二に、この反対意見を離れて、感情が矛盾のないものであったとしても、それは実在の知識としては十分ではないだろう。実在とは、通常、項と関係を含むものとしてあらわれ、実際、主としてそうしたものからなるということができる。しかし、感情の形式は(他面において)諸関係の水準の上位にではなく下位にある。それゆえ、関係を表現することも説明することも可能ではない。かくして、諸関係をもつ事物を理解すべき対象とし、感情がそれを何らかの形で理解すると仮定するのは無駄なことである。そして、この反対意見は致命的なものに思われる。かくして、我々は最初は変化によって、次には執拗に抵抗し続ける関係の形式によって感情を越えざる得なくなる。そして、再び我々が反省に従事したとしても、進展はないように思える。というのも、感情によって事物に与えられる不完全性と関係性は、それについて反省するときに明らかな矛盾だからである。その限界はなにか感情以上のものを指し示しているように思われ、自律して存在する事実は観念性を示し、我々は支えを見いだすことのできない単なる従属物のまわりを経巡ることとなる。それゆえ、感情は難問の解決とはなり得ず、その限りでこの問題は解決されないことが証明される。その内容が古くからの不整合によって完全に損われている。同一性と多様性、直接的な一性と関係との間にある矛盾がより明らかな形で我々に襲いかかってくるとさえ言えるかもしれない。
*1:(1)私はこうした限定された使用法は間違っていると思うが、もちろん、合理 的ではある。他方、他の使用法の存在を無視することは弁解できない。