ブラッドリー『仮象と実在』 54

      ((b)より進んだ自己意識も同様である。)

 

 (b)かくして、単なる感情には自己の実在を正当化する力はなく、当然世界一般の問題を解決するものでもない。しかし、多分、何らかの自己意識ではよりうまくいくかもしれない。それは自己についての鍵と同時に世界についての鍵をも与えてくれる可能性がある。簡単に試してみよう。見通しは確かに最初は元気づけられるようなものではない。というのも、(i)自己意識によってあらわになる実際の事柄をとると、それは(自己の理解について我々を満足させるという意味においては)内的に不整合に思われるからである。読者が前の章の議論を思い返してくれるなら、この点について納得してくれると思う。ある瞬間における、あるいはある持続における自己をとってみると、その内容は調和を保っているものとは思えない。また、その限りにおいて、我々はそれを矛盾なしに調和させることのできるような原理を見いだせない。(ii)しかし、自己意識は直観の、あるいは知覚の特殊な方法だと言われている。そして、一つの自己のなかに主体と対象がある、それ自身のそれ自身を通じ対立することによる自我の同一性、あるいは一般的に言って一にして多のものとして自己を自己把握するというこの経験は、最終的には我々のすべての難問に対する十分な回答となる。しかし、私にはそうした回答は少しの満足ももたらしてくれない。というのも、ここでも感情について致命的であることが証された反対意見を免れないように思われるからである。議論の都合上、直観(あなた方が記述するような)が実際に存在すると仮定しよう。この直観を保持する限りにおいて、矛盾のない多様性があると仮定しよう。それは確かに注目すべきことだが、実在を理解する助けとなりうる原理をもつこととはまったく異なったことである。というのも、どのようにこうした把握が長い出来事の系列を満足させることになろうか。どうしてそれが論証的な知性にある諸関係の形式に応じた知性に達し、超越しそれをしのぐことがあろうか。理解を取り除けば、世界が理解されないのは確かなことである。では、あなた方の直観は理解が求める要求をどのような方法で満足させることができるのだろうか。これは、私にはまったく克服することのできない障害となっている。というのも、直観の内容(一のなかの多)は、それを関係の形式に再構成しようとするとすぐばらばらになってしまうからである。そして、自己意識に諸関係を超えた水準の把握力--論証的な思考を越えた把握の方法でその過程をより高度な調和のうちに含む--を自己意識のなかに見いだそうとする試みは私には成功しないように思える。端的に言って、私はこう結論せずにはおれない。あなた方の直観が一つの事実であるにしても、それは自己や世界を理解することではない。それは単なる経験であり、それ自身や実在一般について首尾一貫した見方を与えるものではない。経験が理解に優越するのは、唯一、それを含み、従属的な要素にすることによってのみだと私には思える。そして、そうした経験は自己意識には見いだすことのできないように思われるものである。

 

 そして、(iii)既に記したような自己意識のすべての形について私はこの最後の反対意見を主張せざるを得ない。対象と主体とがまったく同じである、あるいはその差異のなかでの同一性が知覚の対象であるとき、実際のところいかなる知覚も存在しない。そうしたいかなる意識も心理学的に不可能に思われる。そして、この点について読者の先手をとろうとすることなど無駄なことなので、非常に簡単に述べることで満足しなければならない。自己感情とは異なる自己意識は関係を含んでいる。それは、自己が精神の前に立ち対象となっている状態である。このことは、ある要素は感覚される塊と対立し、非自己として区別されていることを意味する。そして、自己が、その多様な意味においてそうした非自己となることができるというのは疑いない。しかし、どのような意味で我々がそれを考えようと、結果は同じである。対象は決して主体と完全に一致することはないし、感情の背景には我々がある瞬間に自己として知覚できる以上の大量のものが含まれているに違いない。この点についてどう論ずればいいのか私にはほとんどわからないことを告白する。私には、自己のすべてが一回の知覚で観察できるなどということは単なる妄想に思える。まず最初に私は背景に内的感覚の曖昧な残余が残っているのを見いだすが、多分それを対象と区別することはできないだろう。そして、この感覚されている背景には常に外的感覚からの諸要素が含まれていることも確かだろう。他方、対象としての自己がある時において含むのはごく貧弱な細部に過ぎない。自己が背景よりの非常に狭いことは明らかであり、隠しようがない。この感覚される塊を余すところなく述べるためには(実際のところ、もしそれが可能ならばだが)、我慢強い一連の観察が必要であり、どの場合においても対象が主体と同じ程十分に観察されることはないだろう。(1)意識の対象として自己の全体を感じとることは問題外と思われる。そして、更に、自己が非自己と対立するものとして観察されるところでは、すべての関係はこの背景のなかに含まれ、他方においてその背景に対立するものとして区別が生じるということを読者の皆さんには思い起こしてもらいたい。

 

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 このことは次のような反対意見を呼び起こす。もし、自己意識があなたの言ったようなものならば、どのようにして我々はある対象を自己に、別の対象を非自己として受けとるのか、ということである。観察される対象はなぜ自己の性格をもったものとして知覚されるのだろうか。私が思うに、この問題は、少なくともここでの我々の目的に関わる限りでは答えるのに難しくはない。最も重要な点は、感情の統一性は決して消え去りはしないということである。まず最初に、差異化されていない塊が私との関わりにおいて対象となる。そして次に、「私」というものが明確になり、感情の背景との関わりにおいて対象となる。しかし、それでもなお、対象の非自己は個々人の魂の一部であるし、対象となった自己は感得されている統一性のなかに場所を占めている。区別というのはそれに続いて起るが、それが元々ある全体を分断することはない。もしそうしたことが起ったら、結果は破壊的なものとなろう。それ故、自己意識においては、自己として知覚された内容は個的な全体に属している。第一に全体性として感じられる。そして、その内的な集合から非自己が区別される。最後に、内的な背景に対峙する対象となるのである。その内容物は同時に様々な形をとって存在している。そして、非自己がいまだ心的に私のものだと感じられるように、自己が対象となっても、私とは切り離すことができないように感じられる。そうではなく、我々はこの感情の統一を反映しており、自己と非自己とが一体になった自己が我々の対象なのだと言うことができるかもしれない。もしそれが反省の対象だというならそれは真実である。しかし、この反省には再び事実上の主体がある。そして、この事実上の主体は対象よりもより豊かな感情の固まりである。そしてその主体はどのような反省でも対象とはならない。非自己と自己とが一つになった自己は、実際、主体の前にもたらされ、そのようなものとして感じられる。感情の統一は知覚と思考の対象となることができ、いまあり知覚する主体の自己に属すると感じられることも可能である。しかし、心理学的に微妙で困難な点を考慮せずに、その主要な帰結を確言することができる。事実上の主体は、どのような心的状態にあるのだろうと、対象としてもたらされることは決してない。それは、少なくとも、その自らの領域内では自己自身であると感じ、感得された統一と同一だと感じとるものの前に立つ。しかし、事実上の主体は、対象に自分のすべてが含まれている、内部にはなにも残ってはいない、そして差異は消え去ったと感じることは決してないだろう。このことは観察によって自分自身で確かめることができる。結局、主体は感じとれるには違いないが、(現にあるようには)決して知覚されることはできないのである。

 

 しかし、もしそうなら、自己意識は我々の以前からの難問を解決することはできないだろう。というのも、ある全体のなかでの自己と非自己との区別は、私の自己の実在さえもあらわしてはいないからである。それは実在のなかで見いだされるものとして与えられるが、実在を汲みつくすものではない。しかし、たとえ自己が自分にはできないことをし、実在としてそのありようを保証されるとしても、我々は途方に暮れるだけだろう。というのも、もし我々が首尾一貫したありようを考えることができないなら、我々はそれを実在についての真実だとは認めることができないからである。それは単に不可解で欺瞞的な経験となるだろう。そして、我々の見るところ、そうした経験は現実には存在しないのである。

*1:(1)この一連の観察が可能であるかどうかは、同一性と変化とが知覚されないところでも感じられるかどうかにかかっている。93頁参照。