ブラッドリー『仮象と実在』 55

      ((c)人格の同一性は無価値であり、自己の機能的な統一も同様である。)

 

 (c)我々は自己を感情と見てもなんら難問の解決の鍵にはならぬこと、自己意識を取り上げてみてもそれ以上の成功は望めないことがわかった。それは単なる感情を越えでるやいなや古くからの錯覚に満ちた関係と性質の戯れに捉えられ、それによって消散してしまう。疑いなく、以前より高次のレベルで同じ錯覚を繰り返すだけである。努力はより野心的だが、結果は変らない。というのも、我々は統一のなかの多様性をどう理解すればいいのかわかっていないからである。私の判断では、これ以上の詮索は余計なことであるから、自己についてなされる他のいくつかの主張について簡単に触れてみよう。最初は人格の同一性の意識についてである。それは自己の実在について何らかの関係をもっていると思われているが、私の考えではそれは見当違いだと思われる。もちろん、自己はある限度、ある点までは同一である。その限度について原則を立てるのは他の人間に任せておこう。というのも、私の見解では、根底において恣意的でないものなど存在しない。しかし、私が見てとることができないのは、自己同一性の意識から生じる形而上学的な結論である。この事実が自己の不連続性を主張する教義を反駁するものであることは私も理解している。あるいは、より正確に言えば、明らかに原則において自己矛盾している教義に対する明白な反証である。自己はまったく分離的なもの<ではない>。それ故、(疑いなく、ある不思議な二者択一によって)我々はその実在を認める結果になるわけである。しかし、事実は単に次のようなことであるように思える。自己にある種の、理想的には同一の基礎となる内容がある限り、自己はその基礎的内容と関連して想起することになろう。そして、この内容の同一性は、復元し過去を自己の歴史とするために働くもので、実際、我々はこれを基礎としてすべてを打ち立てなければならない。そして、もちろん、このことは自己同一性は事実として存在し、それ故、<いかようであれ>同一の自己は実在にちがいない、ということを示している。しかし、ここでの問題は<いかにしてか>ということである。問題となっているのは、我々が理解できるような形で自己の実在の存在と連続性を述べることができるか、それが先の議論の難点によって台なしにされないかどうかなのである。というのも、我々は興味深い事実を見いだすことはできるだろうが、実在についての筋道の立った見解はほとんど見いだせそうにないからである。その筋道だった見解を瞥見すれば、我々の事実が致命的な誤解を受けていることが示されるだろう。いずれにしても、我々が呈示できるのが相互矛盾したものである限り、それらが真の実在であることを信じようとするのはばかげている。記憶の驚くべき能力に頼ろうとしても事情は変らない。というのも、問題となっているのは、伝えられたメッセージの、あるいはそのメッセージから我々が引き出す結論の真実であるかだからである。私自身はといえば、こう主張する。(どのようなものであれ)批評に耐えるような説を出して、私が至る所で出会う混乱した事実を理解できるようにして欲しい。そうしてくれれば私はそれに従うし、そうした啓示を示してくれるものを奉ずることになろう。しかし、私は奇跡によって保証されているような、あるいは、心理学的怪物の口から出たような実在に関する無意味な言葉を受け入れることはないだろう。

 

 そして、もう一つの事実とみなされているものに対しても私は同じ態度をとらざるを得ない。私が言っているのは、ある種の関係、例えば比較における統一性についてである。それは無時間的なものと思われており、自己に関する形而上学的見解の基礎となるものだとされている。しかし、もしその帰結が疑いようのない見解として提示されるなら、私はその基礎も帰結も同様に捨てざるを得ない。第一に、(第五章で見たように)心理学的に言って、持続から自由ないかなる心的事実も擁護できない。それに加えて、いかなる働きのうちにあるものも、なにかしら具体性があり、その働きと具体的な関係がなければならない。例えば、比較においては、比較されるものとの特別な同一性の基礎がなければならない。(1)第一に、無時間的な性質をもって独自に振る舞う無時間的な自己とは、私にとって心理学的怪物である。第二に、こうした途方もない事実が存在するなら、確かな見解というものが真実ではないことが示されることとなろう。そして、単なる途方もない事実だけが残ることになろう。少なくとも、私自身に関する限り、どのようにしてそれが首尾一貫して擁護しうる自己や世界についての結論を与えてくれるのかわからない。ここで再び我々は同じ問題にたどり着く。実在についての謎が我々をあらゆる方向から取り囲んでいることを見いだすのである。致命的な攻撃を受けることなく、批判の矛先をかわしながら差異と一とを結びつけるような見解を見せて欲しい--私は感謝する。しかし、私は他の点では誤りで、別の教義の反対意見でしかないような主張には感謝することはできない。受け入れることのできない主張を受け入れても、我々の手もとには非常に奇妙な事実が残るだけだろう。そうした事実にはなんの原理もなく、我々は世界の謎を解くこともできない。

 

(((1)この点については、『マインド』41および43号。))