明治余韻ーー福沢諭吉と丸山真男

 

「文明論之概略」を読む 上 (岩波新書)

「文明論之概略」を読む 上 (岩波新書)

 

 

 丸山真男という思想家は、私にとって長い間ブラインド・スポットのなかに入っていた人であって、元来そのときどきに好きになった著作家から、芋づる式に読書範囲を拡げていく私の芋づるにいっかな引っかかることがなかった人物なのである。数年前に読むようになったのも(岩波新書の『日本の思想』はそれこそ数十年前、学生のころ一般教養として読んだような気がするが、もちろんその内容はなにひとつおぼえていなかった)、荻生徂徠本居宣長など、江戸時代の儒教国学に関心があったので読んだにすぎなかった。もっともこの頃には、丸山真男の主著が福沢の『文明論之概略』の周到な読解にあることは知っていたが、同時に、単なる啓蒙家、実学を重んずる人物であり、維新史のなかでは私の贔屓である勝海舟を『痩我慢の説』で、旧幕臣でありながら新政府のために働いているといって批判していることなどを見ると、妙なところに「痩我慢」をもちだすものかなと思ったし、なにしろお札になるほどだから、とそこはかとなく馬鹿にしていたので、丸山真男がなぜ執拗に諭吉を論じるのか理解できなかったのだが、「福沢に於ける『実学』の展開」(1947年)および「福沢諭吉の哲学」(同年)を読んで、その理由が多少なりとも理解できるようになった。

 

 実学は、字義の詮索をもっぱらとする儒教や有閑的な歌学に対立するものとされ、そしてそうした実学の観点から福沢の啓蒙的性格が評価された。しかし、実学そのものは、明治の福沢諭吉を待つまでもなく、山鹿素行や熊沢蕃山に明らかなように、実は日本において伝統的な主張であるといっていい。

 

 伝統的な主張と異なるのは、福沢が言う学問が江戸時代とはまったく変わっていることにある。江戸における学問とは、修身斉家の学、つまり、儒教を中心とした倫理学であったのに対し、福沢の学問とはニュートンに大成されたような物理学を指している。従って学問がそのまま倫理に直結するのではなく、物理学を学問の原型におくことによって、近代科学を生みだすような人間精神のあり方、そうした人間の倫理を探ることになる。

 

 旧世界においても、自然の観察、認識は盛んに行われたが、それは自然現象のなかに倫理的な価値判断が持ち込まれるという形においてであり、精神と自然とは解きほぐせないように浸透し合っていた。天が高く地が低いことが天地の秩序をなすのと同じように、身分的な上下をも同じようにあらわしていて、それは単なるアナロジーではなく同一の一貫した原理であった。

 

 西欧の近代は、まさしくそうした自然の内在的価値、精神と自然との浸透を切り離し、人間的な主体を確立することにあった。逆に、日本の旧世界の理想は、自然と社会的秩序の合一にあった。生活は、この秩序に順応することによって決定された。

 

 『文明論之概略』は価値判断の相対性を主張することではじまっている。相対性をもってはじめて軽重、長短、善悪、是非などを論じることができる。そしてこの「哲学」が福沢の状況論にも一貫している。たとえば、徳川体制はヨーロッパの近代市民社会と比較すれば、権力偏重の社会であり、立ち後れているが、一方、明治維新後の中央集権的統一国家に対しては、社会的価値が分散しているという点でバランスが取れていたと評価されうる。

 

 ヨーロッパは国の独立という点においては、モデルとなり得ベきものであるが、その文明が絶対的な真であるわけではない。文明とは本来国家を超出する世界性をもつべきものだからである。この世界性に照らせば、ヨーロッパといえどもいまだ劣った価値をもつに過ぎない。

 

 価値判断の相対性は、人間精神の主体的能動性なしには即座に状況に呑みこまれてしまう。社会的交通(人間交際)の頻繁化こそがすべての変化の原動力である。

 

それは社会関係の固定性がますます破れ、人間の交渉様式がますます多様になり、状況の変化がますます速かになり、それと同時に価値基準の固定性が失われてパースペクティヴがますます多元的となり、従ってそれら多元的価値の間に善悪軽重の判断を下すことがますます困難となり、知性の試行錯誤による活動がますます積極的に要求され、社会的価値の、権力による独占がますます分散して行く過程にほかならぬ。この大いなる無限の過程こそ文明であり、この過程を進歩として信ずること、それが福沢の先に述べた様な神出鬼没ともいうべき多様な批判を根底において統一している価値意識であった。(「福沢諭吉の哲学」)

 

 

 つまり、福沢の哲学は、西欧においては、事物の価値を内在的な性質とせず、具体的状況との機能性によって決定していき、十九世紀の機械的決定論に埋没した科学的精神を、ルネサンス当初の実験的、かつ主体的行動的精神と再び結びつけようとしたプラグマティズムと比肩しうるものである。

 

 現代はといえば、人間の交渉様式は多種にわたり、状況の変化はますます加速化し、価値観は多様になり、多元的な世界になったが、同時に貧富の差は拡大し、原理主義やヘイトが蔓延している。ウィリアム・ジェイムズはプラグマティストの必須の条件として心が軟らかいことをあげたが、硬い心がますます充満しているようにも思える。鬱血やしこりが至る所に目立っているが、それは「社会的価値の、権力による独占」が可視化されて、分散して行く際の副次的な現象に過ぎないのだろうか。本来楽天的な私は、どんな硬直や悪行も、桂文楽とともに「天が許しませんよ!」と思っているのだが、ここでの天はもちろん儒教的な天ではなく、「噺家は化けなきゃいけませんよ」とも言った文楽の落語国の天であり、そこには文楽の例の特徴的な哄笑が響き渡っているのである。