ブラッドリー『仮象と実在』 57

      ((e)モナドとしての自己。)

 

 (e)結論としてモナドの理論に簡単に触れておこう。各自己というのは独立した実在で、単純なものでなくとも実体だという教義において、実在に関する筋道の立った議論が探求されている。しかし、この試みには長々しい議論を必要とはしない。第一に、世界に一つ以上の自己があるなら、我々はその関係という問題に直面する。「そんなものはなくてもかまわないじゃないか」という答えは、三章で既に見たように、十分な防御ではない。分かれてあるという関係のない多数性や分離は実際なんの意味ももたないように思える。他方から見れば、諸関係がなければそれらの貧弱なモナドには過程もないだろうし、なんの目的もないだろう。しかし、関係を認めてしまうと、モナドの独立には致命的なのである。明らかに、実体は形容詞的なものとなり、すべてを包括する全体の要素となってしまう。そして、安定した堅固な原則のない内容物だけが残されることになる。(1)第二に、それが残されたとしても、我々の難点の解決にはならないだろう。考えて欲しい。我々は多数性と統一とが調和されないものであることを見た。その内容物との関係における自己、存在というものがとる多様で特殊な形式、その双方の至る所で我々は同じ厄介事にであった。我々は一緒でなければならないものをもっているのだが、それがどのようにしてまとまっているかはわからない。自己のは多様性があり、自己には統一性がある。ところが、いかにしてかということを理解しようとすると、矛盾した、それゆえ真理たり得ないものに落ち込んでしまう。それでは、自己のモナド的な性格--その正確な意味(もしあるとして)がどのようなものであろうと--は我々をどのように助けてくれるのだろうか。少なくとも、どうして多数性が一なるもののなかで調和をもって存在することができるのか示してくれるだろうか。もしそれがなされるなら、謹んでそうしてくれるようお願いする。というのも、そうでなければ、統一ということが単に言明され、強調されているだけのようだからである。多様な内容の問題は完全に無視され、あるいは虚構と隠喩の混乱のうちに隠されている。しかし、もし統一の強調以上のことが意味されているなら、その以上は明らかに反論されうるものである。というのも、多数性が説明されるかわりにないがしろにされているところでは、自己の真の統一がもつ限界線についても否定的な主張がなされるだろう。この主張は批判に耐えることができない。最後に、時間における自己とその内容物との関係が新たな解決することのできない謎になる。全体として、モナド主義は既に存在する難点を増やし新たにつけ加えるもので、そのうちの一つとして解決をもたらさないだろう。実際、我々のすべての難点の説明が、その一側面を執拗に強調することで得られるとしたら奇妙なことだろう。

 

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*1:(1)注意深いロッツェの読者は、なぜ彼にとっては個的な自己が仮象的な従属物以上のものなのか理解し難いに違いないと私は思う。私には、彼の分析によれば何らかの仕方でそれ以上のものを得るのだということしかわからない。しかし、彼がこの問題に公正に向かい合おうとしているとは私には思えない。