ブラッドリー『仮象と実在』 61

      (しかしそれはそれ自体一なる諸事実を含まない。)

 

 最後の問題は、ある非常に明白な批判を示唆している。この観点は、すべての事実を考慮すると主張するか、あるいはそうした主張をしないかのどちらかである。後者の場合、同時にそれでこの主張も終わる。しかし、前者の場合、次のような致命的な反論に出会うことになる。諸事物や世界や自己に統一を導入するような考え方--明らかにそうした考え方は多く存在するのだが--はもちろん幻想である。しかし、にもかかわらず、それらはまったく否定することのできない事実である。現象主義は、それらの事実を考慮し、その存在が可能となる原理がいかなるものであるか説明するよう求められる。例えば、そうした諸要素とその法則だけで、現象主義の理論そのものは、どのようにして可能となるのだろうか。その理論は、もし真実であるなら、不可能なものの統一であるように思われる。この種類の反論は非常に広範囲にわたり、あらわれの考えうる限りの領域に及ぶ。しかし、私は現象主義がいかなる答えを用意しているかを尋ねようとは思わない。単に、この一つの反論があり、それが理解されさえすればするべきことは終わっている。かつてこのことに公正に向き合った試みがあったのなら、私は見逃してしまっている。我々は予めそうした努力はまったくの無駄に違いないと決めてかかっているのかもしれない。

 

 そういうわけで、教義の実際の批判には入らず、この教義が認めなければならないこと、にもかかわらず目を閉じて無視していることに言及することだけで十分な反駁としよう。しかし、この教義のもつ矛盾について数言だけつけ加えておこう。