ブラッドリー『仮象と実在』 62

      (その要素は理解不可能である。)

 

 第一に、この教義がその要素と関係について述べていることは理解することのできないものである。現実的な事実があるところでは、そうした区別は明らかで、必然的であるとさえ思える。少なくとも、私はどうしてそれを免れることができるのかわからない。しかし、そうであるとしたら、ここには統一された多数があることになる。恐らく、どのようにしてか一緒になったいくつかの要素とその関係があることになる。区別ということが分離することであるとき、「一緒」の意味とはなんであろうか。その関係とはどういうことだろうか。いくら内的なものであっても、それらから自由な要素がありうるだろうか。諸関係自体が与えられた要素ではなく、別の種類の現象なのだろうか。しかし、もしそうなら最初の種類の現象と第二の現象との関係はどういったものなのだろうか(第三章参照)。もしこうした疑問がまったくのナンセンスだというなら、このナンセンスの責任は誰にあるのだろうか。例えば、どんなものでもかまわないが、感覚的事実を取り上げてみよう。そして、その要素と関係ということでなにが意味されるのか現象主義者にはっきりした言葉で言ってもらうことにしよう。その二つの側面は互いに関係があるのか、そうでないとしたらどういうことなのか言ってもらうとしよう。次の点に移ることにする。