イデアとしての糞

 

北回帰線 (新潮文庫)

北回帰線 (新潮文庫)

 

 

 プラトン学者のバーネットは、イデアは古典ギリシャ語において、姿、形をあらわす、と主張していた。大工は家を、料理人はムニエルや天ぷらをイデアに倣ってつくるが、実際にできあがるのは、いまここに存在する個物である。経験論者が論じる感覚と観念の相違に近しいが、観念は理念として完成されたものの特別な位置に置かれるものではない。その意味でイデアと個物との懸隔は埋めることができない。ところが、あらゆる存在は数的なものだとしたピタゴラスプラトンの思想が近しいのだとすると、数的なもの、つまり、プラトンにおけるイデアはどんな個物のなかにも織り込まれていることになる。プラトンの対話篇では、それでは排泄物のような汚物にもイデアは存在するのか、と問い詰められる場面がしばしば登場する。ヘンリー・ミラーは『北回帰線』のなかで、最後の審判のときを迎え、最後の晩餐をとろうとするとき、銀の盆の上に二つのでっかい糞の塊がのっかっていたとすれば、それこそ人間が長い間追い求めてきた奇跡であろうと書いている。つまり、奇跡であるとともに、まさにイデアとしての糞があらわれる。