ブラッドリー『仮象と実在』 64

      (法則とはなにか。)

 

 このたったいま言及された産物の本性について疑問を投げかけるべきときだろう。それは束の間のあらわれのなかに見てとることのできる永続的で実在する本質なのだろうか。もしそうなら、再び現象主義は排除したはずのものを盲目的にあがめていることとなる。そして、もちろん、それら本質の関係--互いの関係と、それらに従属しているように思われる現象との関係--は、余りに困難であることがわかっている難点へと我々を引戻す。しかし、私は法則の実在を否定、あるいは完全にというのではなく保留つきで否定しなければならないと思う。法則は仮定的なものである。それ自体では可能性以外のものではなく、実際にあらわれ見いだされることによってのみ現実的なものとなる。それを離れ、単なる法則だけでは、いまだ存在しない要素をつなぐものでしかない。そうしたつながりだけなら、厳密には現実的なものではない。つまり、諸要素があらわれ以外の場所ではなにものでもないなら、あらわれの外側では法則とは実際なにものでもないのである。では、あらわれのなかでは、諸要素と法則のどちらが非実在的で擁護されない考えなのだろうか。我々はそれらについて、それらが実際にどうであるか知らないことのみを語ることができるように思える。我々が確言できるのは、それらが我々の知る、つまり所与の現象ではないということだけである。