ブラッドリー『仮象と実在』 65

      (最終的ジレンマ。)

 

 ここで我々は終了することができる。この教義は単なるあらわれから出発した。もちろん、単なるあらわれを越えることを余儀なくされ、無知で無鉄砲な仕方でそれをなしたのだった。それを退けるには僅かの批判で足り、残されるのは一つのあらわれのなかに様々な差異がなければならない世界かまったくのナンセンスかである。そうした差異そのものはまったく擁護されるものではない。もしそれを認めれば、一者における多数という形而上学的問題を扱わねばならないことになる。明らかにそれは与えられてもあらわれてもいないものであるため認めることはできないが、少なくとも多かれ少なかれつくりだされている。現象主義がこのジレンマに終わることは必然的である。瞬間のあらわれを維持し、まったく与えられた通りのあらわれを残しておかなければならない--そうすると、それ以上の知識があり得ないことは確かである。あるいは、「超越的になり」(言葉の赴くまま)、通常の形而上学に見いだされる以上の途方もない矛盾のなかを進まなければならない。ある特殊な真理を確かめるためにだけ用いられる作業仮説としては、もちろん、現象主義は有用で必要なものでさえある。自分の説を進めていく途次にこれを攻撃する形而上学者の方が一層悪いということもありがちである。しかし、現象主義が理性を失ってずうずうしくなり、第一原理として歩を進めることになると、尊敬に値するものではなくなる。その主張に対して言い得る最上のことは、それが馬鹿げているということである。