ブラッドリー『仮象と実在』 67

      (ただ難点を倍加するだけである。)

 

 まず物に含まれる多数性について述べてみよう。もしそれが意味をもつならば、この隔絶した世界で我々は多くの問題をもつことになる。多様性とその関係は我々が避けようと努めてきた難問に我々を連れ戻すことになる。もし我々が一貫性を保とうとするなら、多数性は捨てなければならないことは明らかだろう。そこで、今後我々は物自体に話を限ることにしよう。

 

 我々は一方に実在を他方に仮象をもつわけだから、その関係を尋ねるのは自然なことである。それらは互いに関係をもっているのだろうか、それとももっていないのだろうか。もし関係をもち、仮象が実在の従属物であるなら、物自体はそれによって限定を受けていることになる。それは限定を受けているが、どのような原理によってだろうか。それを我々が知ることはない。結局以前我々を悩ませた未解決の問題をすべて背負い込むことになる。その上、混乱の大本となるのは、属性をもつ物自体はもはや物自体ではなくなっているということである。この悩ましい属性こそまさにこの教義が避けようとしたものなのである。それゆえ、我々は仮象と物自体とのいかなる関係をも否定しなければならない。しかし、そうすると、別の問題が我々を悩ますことになる。物自体は性質をもつかもたないかである。もしもつなら、我々が置き去りにしようとしたのと同じ難問が生じることになる。仮象の餌食となり、その残骸で満足することとなる。そこで我々は自己修正し、物自体は属性をもたないと主張しなければならない。しかし、もしそうなら、我々は同じ確実性をもって破滅する。というのも、性質のない物自体は明らかに実在ではないからである。単にそこにあるものとするか、それが意味するものを考えるかに従って、それは単なる存在か、単なる無かであるだろう。こうした抽象が我々になんの役にも立たないのは明白である。

 

 もし状況を仮象の側から見ても、勇気づけられはしない。仮象は実在との関わりを持つかもたないかである。前者の場合、混乱以外のなにものもない。まさに道一つ見つからない古くからのジャングルで、物自体に頼るくらいで道は開けない。しかし、仮象と実在との関係を否定したとしても、事態は良くならない。隣り合う、あるいは積み重なる混乱と無秩序の二つの領域をもつことになるだけである。この場合、物自体という「別の世界」は我々の厄介事を二倍にするだけである。また、物自体が属性をもたないと仮定しても、なんの助けにもならない。具体的な世界にあるものはすべてもとのままで、この惨めな抽象は我々自身の関心事を無視するための貧しく的はずれな弁解となるだけである。

 

 この議論の最後の特徴について考えてみよう。我々の経験する仮象は、結局の所、我々にとって価値のあるものに違いない。事柄の性質から言って、それが人間的価値をもつことができるものなのは確かである。確かに、我々の言葉で意味するものを理解する限り、物自体はまったく価値がなくいかなる関心を引くものでもない。我々の心が不運にも真面目なところをもたないなら、ある程度おかしな所があることになろう。物自体に触れない限り、現象の矛盾もある意味適切なものとして満足できる。つまり、我々が知り経験できるものは、いかに混乱しているにしてもさしたる問題ではなく、この時代遅れの幽霊はどんな代償を払っても守るべき救いの箱船なのである。我々の知識の外側にあって矛盾したりしなかったりするものがどうすればあり得るのかは単に理解不可能である。我々がすべてを犠牲にしようと用意しているこの可視的なものは我々にどんな要求でもすることができる。これが意味しているのは我々の混乱であり、理論による支配は誤解の世界にしかないということである。