ブラッドリー『仮象と実在』 70

     (我々は絶対的な評価基準をもっている。)

 

 実在の本性の探求を始めるにあたって、我々が出会うのは、もちろん、一般的な疑いや否定である。(1)真理を知ることは不可能である、あるいは、いずれにせよ実行不可能だと言われる。我々は第一原理について確かな知識をもつことはできない。もしもつことができたとしても、実際にいつそれを得たのか知りはしない。端的に言って、否定されているのは判断基準の存在である。後に第二十七章で、私は徹底的な懐疑主義の反対意見をより詳しく採り上げることになるが、ここではいま必要に思われることだけに留めておこう。

 

(1)序2ページを見よ

 

 絶対的な判断基準は存在するだろうか。この問題は、私には、第二の問題によって答えられるように思われる。別な方法でどうやって我々は現象についてなにかを語ることができるのだろうか。前の巻において、我々が多くの部分で批判してきたことを読者はおぼえておられるだろう。我々は現象を判断し、それを非難し、自己矛盾は実在たり得ないかのように議論を進めた。これは確かに、絶対的判断基準をもち、それを適用していることになる。考えてみよう。実在についての陳述を呈示するときまったく受動的にそれをすることはあり得ない。あなたは、少なくとも自分でわかっている限りでは、なんらかのナンセンスを真理、絶対的で完全な真理と認める立場をとることはまずあり得ないだろう。というのも、もし真理と虚偽とを識別するために考えるのだとすると、明らかな自己矛盾を受け入れることはできないだろうからである。それゆえ、考えることは判断することであり、判断することは批判することであり、批判することは実在の判断基準を用いることなのである。このことを疑うことは単なる盲目であり、混乱による自己欺瞞なのは確かである。しかし、もしそうなら、不整合性を現象として排除することによって、我々は事物の究極的な本性について実定的な知識を当てはめているのは明らかである。究極的実在とは自己矛盾しないものである。これが絶対的な判断基準である。それが絶対的であることは、否定しようとしても、あるいは疑おうとするときでさえ、暗黙のうちにその正当性を仮定しているという事実によって証明される。