ブラッドリー『仮象と実在』 74

  第十四章 実在の一般的性質(続き)

 

      (絶対は一つの体系であり、その材料は経験である。)

 

 我々のこれまでの結論はこうである。あらゆる現象的なものは、幾分は実在である。絶対的なものは、少なくとも、相対的なものと同じくらいは豊かでなければならない。更に、絶対は多ではない。独立した実在など存在しない。宇宙はこの意味において一であり、差異は一つの全体のなかで調和して存在しており、それを越えてはなにも存在しない。それゆえ、絶対は一つの個的なものであり、体系であるが、ここで止まると、それは形式的で抽象的なままである。そこで、問題は、我々はこの体系の具体的な本性についてなにか言うことができるだろうか、となる。

 

 確かに、それは可能だと思われる。空欄を埋める事柄がなにかを自問すると、一言で、経験だと答えることができる。経験が意味するのは、所与の現前する事実に等しい。反省してみれば、実在、あるいは、単に存在するものであっても、感覚性のなかになければならないことが見て取れる。端的に、感覚的経験が実在であり、そうでないものは実在ではない。別の言葉で言えば、通常、心的存在と呼ばれるものの外側に存在や事実は存在しない。感覚、思考、意志(心的現象をどのグループにクラス分けするにしても)が存在の材料であり、それ以外には、現実的でも可能的であっても材料など存在しない。一般的な形式で言いあらわされたこの結論は、まったく明らかなように思われる。この一歩がどれほど重大なものに思われようが、この点について長々と論議をしても得ることはなかろう。というのも、主要な検証法は既に我々の掌中にあり、決するべきなのはどのようにそれを用いるかなのである。簡単に次のように述べてみよう。事実と呼ぶことのできる、あるいは、いかなる意味であれ、存在していると言うことのできるものの一片を見いだし、それが感覚的な経験によって成り立っていないかどうか判断してみよう。あらゆる知覚や感じが取り除かれても、それについて語り続けることができるような意味を見いだせるかどうか試してみよう。あるいは、知覚や感じから発したのではなく、それらと関係しないもの、あるいは存在を指摘できるかどうか試してみよう。実験が厳密に行われれば、経験されたもの以外の何ものも考えることはできない。感じられ、知覚されたものでないものは、なんであっても私にとってはなんの意味ももたない。そして、それらについて私が何らかのことを考えようとすれば、まったく考えることができないか、あるいは、意志に反して経験したものとして考えることになるかにならざるを得ないので、私にとって、経験は実在と同一だという結論に向かうことを余儀なくされる。至る所にある事実は、私の心のなかでは、単なる言葉であり、失敗、あるいは自己矛盾に至る試みに思える。その存在は意味のないナンセンスである不完全な抽象であり、それゆえ可能なものではない。

 

 この結論は、もちろん、容易ならぬ反論にさらされており、その帰結において重大な難点をもたらすに違いない。そうした議論を先取りするつもりはないが、先へ進む前に、危険な間違いを取り除いておくよう努力してみよう。実在が経験以外の何ものでもないと主張すると、私はごく一般的に見られる誤りを支持していると思われるかもしれない。まず最初に、知覚する主体を宇宙から切り離し、自立的な存在であるこの主体によって立ち、この主体は自らの立場を越えでることはできないのだと主張していると思われるかもしれない(1)。こうした議論は不可能な結論に通じ、間違った抽象に基づいている。主体を全体から独立した実在と見なし、全体をこの主体の属性といった意味における経験に流し込んでしまうのは、私には擁護しがたいように思われる。私が実在は感覚的なものでなければならないと主張するとき、私の結論は、ほぼこの根本的誤りの否定によって成り立っている。というのも、実在を求めて、我々が経験に赴くとき、確実にそこに見いださないのは、主体、対象、あるいはなんであれ独立し、自律したものである。我々が発見するのは、区別はなされうるが、分割は存在しない全体である。この点こそが、実在が感覚的経験だと主張するとき、私が固執しよって立つ地点である。私は、実在とは感覚と分離することのできない一つのものだといっているのである。ある感じの全体から感覚を統合する要素を取り除き、特徴や側面を取り出してみてもまったく意味はない。私が拒絶するのは、感じを感じられるものから、欲望を欲望されるものから、思考を思考されるものから分離すること、--加えて言えば--なにかとなにかとを切断することである。それ自体で実在として提示されるものなどないし、論証がもたらす錯覚なしに論証することもできない。実在が経験だと主張するとき、私は徹頭徹尾この立場に立っている。感覚において統一されていないような事実を見いだすことはできないし、それを実際にであれ、観念においてであれ分離することはできない。そして、感じや知覚からまったく分けることのできないこと、経験された全体を統合する要素であること、それこそが経験であることは確かである。存在と実在は、端的に言って、感覚と一つのものである。対立することも、最終的には区別することさえできない。

 

(1)この問題は第二十一章で論ずる。

 

 こうした発言が説明と防衛の必要なことは私も十分わかっている。続く章がその役に立つことを願っているが、いまは先に進んだ方がいいように思う。これまでの我々の結論は、絶対は一つの体系であり、その内容は感覚的経験以外の何ものでもない、ということであろう。あらゆる部分的な多様性を調和のうちに包み込む、単一にして包括的な経験であろう。というのも、それは仮象以下の、いかなる種類の感じや思考をも欠いたものではあり得ず、仮象の限界を超えでるものだからである。もしそれが我々の知る感じや思考以上のものなら、同じ本性がそのまま残っていなければならない。感覚知覚という一般的な名称のもと、違った領域に移ることはできない。そうした可能性を認めることは、結局は、意味のない言葉を使うことになろう。そうした提案は、自己矛盾であり不可能なものとして以外には受け入れることはできない。

 

 この著作が最後にまで達すれば、読者もこの結論により確信が持てるようになると私は信じている。というのも、これがあらゆる事実を調和させる見方であるからである。それに対する反論は、正確に定義されさえすれば、擁護され得ないことが証明されるだろう。しかし、現在の我々の一般的結果には重大な欠点がある。この原理における間違いを指摘し、修正するよう努めねばならない。