ブラッドリー『仮象と実在』 80

      (我々の絶対に関する知識は不完全であるが、実定的である。その源泉。)

 

 それゆえ、少なくとも現在のところ、実在は我々の全存在を満足させると信じねばならない。我々に必要なのは--真理と生、美と善にとって--すべてにおいて満足を見いだすことである。既に見たように、この達成は経験において、個的なものとしてなされねばならない。宇宙のあらゆる要素、感覚、感じ、思考、意志は一つの包括的な直覚のなかに含まれねばならない。ここで生じてくる問題は、実際我々はそうした直覚について実定的な観念をもっているかどうかということである。それが現実的なものだと言うときなにが意味されているのか、我々はすべて知っているのだろうか。

 

 有限な存在にとって、絶対者の存在を完全に理解するのは不可能である。かくして、それを知るには、存在すべきでもあるし、更に我々は存在すべきではない。この結論は確かであり、それを避けるどんな試みも幻影である。ここで問題は、我々が「知る」ということでなにを理解するのかになる。細部に至るまで絶対的な生を建設し、そこにある特殊な経験を有するのは不可能である。しかし、その主要な特徴の観念を得ること--抽象的で不完全ではあっても、真である観念--はまた異なった営みである。私の見る限り、成功することのできる仕事である。というのも、そうした主要な特徴は、ある部分、我々の経験のうちにあるからである。また、それらの組み合わせの観念は、抽象において理解可能である。それ以上のものが絶対者の知識として求められないのは確かである。もちろん、それは事実とは全く異なった知識である。にもかかわらず、ある限度内において真である。有限な知性によって十分に到達可能だと思われる。

 

 そうした知識を得る源泉について簡単に述べることでこの章を終えよう。第一に、単なる感じ、直接的現前によって、我々は全体の経験を得る(第九、十九、二十六、二十七章)。この全体は多様性を含むが、諸関係によって分断はされない。こうした経験は不完全で、不安定なことは認めねばならないが、不整合によって我々はその超越へと導かれる。実際、失うということにおいてしか保持していることができない。しかし、このことは、意志と思考と感じが一つになった全体的経験という一般的観念を我々に示唆しする。さらに、識別まで至らないと感じられる、この統一は後には識別に対するある種の敵意をあらわすこととなる。それは理論と実践によってなされる努力のうちに見いだされ、それぞれが自身を完成し、相手に移ろうとする。既に見たように、合理的形式は至る所で統一を指し示す。諸関係の向こう側に、それを越えて存在する本質的な全体性、細部における実現には成功しない全体の努力を含んでいる。善という観念、美という観念も異なる仕方で同じ結果を示している。どちらも、多かれ少なかれ、多様性に満ちてはいるが、諸関係を越えた一つの全体の経験を含んでいる。さて、もし我々が(可能ならば)こうした考察を一つにまとめると、きっとある明確な観念を得ることとなろう。多様な現象を超越し、かつ含むある統一の知識を得る。そこで得られるのは経験ではなく、抽象的な観念で、我々が与えられた要素を結びあわせてつくったものである。そして、一度は抽象的であった統一の様態が実際に与えられる。それによって、あらゆる分裂を包み込み、しかも直接的な感じを有する経験の意味するところを知るのである。様々な現象が一つとなる絶対的経験という一般観念を形成することができ、そこでは、全体は、豊かさを失うことなくより高次の直接性に至るのである。この具体的な統一を細部においてまったく理解できないことは、その受け入れを拒む十分な根拠とはならない。そうした根拠は非合理的であり、その原理を固守することはできない。もし我々が絶対の一般的特徴を理解することができるなら、曖昧で抽象的ではあっても一緒になった特徴を見て取ることができるなら、我々の結論は確かなものとなる。我々の結論は、その赴く限り、絶対の真なる知識、経験に基づいた確かな知識であり、整合性をもって考えようとする限り不可避なものとなる。一連の反論と難点に向かいあうことで、その本性がより明瞭に見て取れよう。我々の結論に反するものがあったとしても、理性においては我々はそれが真だと考えざるを得ないのだと主張することができよう。