ブラッドリー『仮象と実在』 82

      ... (観念は主語と述語の対照によって判断のうちに明らかになる。)

 

 このことは、思考がもっとも完全な形であらわれる判断の本性を考えるとより明瞭に理解することができる。判断において、観念は実在を叙述する。第一に、述語づけられているのは心的なイメージではない。判断が別の事実と付け合わそうとしているのは、私の頭のなかの事実ではない。述語は単なる「何」、内容の特徴であり、主語となるものの「存在」を性質づけるために用いられている。この述語は頭のなかの心的存在とは分離しており、そこにある存在とも関係なく使用されている。「この馬は哺乳類である」と私が言うとき、私が自分の心的状態とその動物とを馬に馬車をつなぐようにつないでいるのだと想定するのはばかげている。判断は実在に形容詞をつけ加え、この形容詞は、存在から自由な性質であり、存在に含まれるものとは自由に働く観念である。事実が分析される場合でさえ--述語が主語を越えるものではなく、別の事実から引き離され移し替えられたとは思えない場合でも--我々の考え方が当てはまる。というのも、明らかに総合は区別されたものの再結合であり、最終的に覆されるにしても、決してつくられたものではない分離を含んでいるからである。述語は直接的存在から自由になった内容であり、最初にある統一から引き離されて使用される。また、述語として、抽象的であり、頭のなかにあるものとして存在とは関わりなく適用される。そうでなければ、判断は存在しないだろう。区別も述語づけもあり得なくなるからである。しかし、もしそうなら、我々は再びここで観念を発見することになる。

 

 第二に、判断の主語を見やると、我々が別の側面、つまり「そのもの」を見いだすのは明らかである。「この馬は哺乳類である」の場合、述語は事実では<ない>が、主語が現実の存在であることは確かである。同じことはあらゆる判断について言える。何ものかについて実在を主張するか、「何」であるかによって「そのもの」を性質づける以外のことをしようとは誰も<思わない>。別の場所で指摘したことを長々と論ずることは止めて(1)、あり得る間違いのもとにだけ注目してみよう。「いずれにしろ、主語は<単なる>『そのもの』であることはない。むき出しの実在、性格のない存在であることは決してない」と反論されるかもしれない。このことについては、私は完全に同意する。我々が<意味する>主語--判断が完成する前の、諸要素がばらばらなままの--が単なる「そのもの」以上のものであることは私も同意する。だが、ここではそれが論点なのではない。論点は、あらゆる判断において述語にはなく主語にはある存在を見いだすわけではないのか、この二つの側面を総合することで判断の本質を得るのではないのかにある。私自身は、この結論を避けることはできないと見ている。判断は本質的に、暫定的に隔てられている「何」と「そのもの」という二つの側面を再結合することにある。しかし、二つの側面の疎隔にこそ思考の観念性が存するのである。

 

(1)『論理学原理』第一巻。