ブラッドリー『仮象と実在』 84

  ... (真理は有限なものの観念に基づいている。)

 

 この点についてはすぐ後で扱うことにするが、まず最初に、最も重要な点に注意を引いておこう。観念は事実の外側にあるものであり、事実に外からもたらされたなにか、事実にのせられたある種の層だという考えがある。事実そのものを取ると、いかなる意味でも観念ではないかのように語っている。しかし、そうした考えは幻影である。観念的ではない事実、存在と内容とが一体となっている事実など現実のものではあり得ないと思われる。どこかに見いだされるとするなら、内的空白のない完全に単一の内容をもつ感じにあると言えよう。しかし、与えられた事実に留まると、それは我々の手のなかで変化し、内容の不整合を見て取らざるを得ない。この内容は、単に与えられた「そのもの」として指すことができず、それを越えた、外にあるなにかを性質づけるものとせざるを得ないのである。もしそうなら、もっとも単純な変化にも観念性がある--現実の存在とは離れた内容の使用がある。実際、第九章と十章で、いかにそれが必然的なものであるかは既に見た。与えられたものの内容は、永久に与えられていない何ものかと関係をもち、「何」の本性は、本質的に「そのもの」を超越するのである。これを与えられたものの観念性ということができる。それは思考によってつくりだされたものではなく、思考自体がその発展であり産物なのである。限定的な事物の本質的な性質は、その性格が存在の限界を超えて移っていくことにあらわれる。

 

 そして、既に見たように、真理とは、この病をいわばホメオパシー的に癒やそうとする努力である。思考は、無条件で「与えられたもの」の観念性を、整合性の欠如と自己超越的な性格とを受け入れねばならない。この自己超越を極限にまで推し進めることで、思考は完成と安定とを見いだそうとする。一方で、主語はもはや与えられたものと言えないところまで拡張する。全宇宙となってあらわれ、ある瞬間にあらわれるのはその実在の部分に過ぎない。我々が見て取れる限りにおいては、至る所に存在するすべてを包含する全体となる。しかし、他方において、実在を性質づけることにおいて、思考は部分的な自己犠牲に同意してもいる。「何」と「そのもの」との分離を認めねばならず、観念を無視して、現実の実在に達するといったやり方で両者を結びつけることはできない。というのも、観念において、そして観念によってのみ、思考は働き生命をもつことができるからである。実在に当てられた内容は、当てられたものとしては、真の存在を有していない。「そのもの」から分かれた形容詞であり、判断においては、判断が完成した場合でさえも、堅固な統一を取り戻すことは決してない。かくして、真理は存在に属してはいるが、真理として存在しているわけではない。実在が有する性格であるが、その性格は、真理や観念として存在からは遊離している。それぞれが集まり、事実を<形づくる>という具合に結合することは決してない。それゆえ、真理は裂目をあらわし、決して現実の生命を示すことはない。述語は主語と等しくはなり得ない。もしそうなったら、形容詞が整合性をもって存在と融合したら、もはや真理であるとは言えないだろう。別のより高次な実在に移ったこととなろう。