ブラッドリー『仮象と実在』 86
... (思考は二元論的であり、主語と述語は異なる。)
実在は、何であれ、存在と性格という二つの側面をもち、思考は常にこの区別のなかで働かねばならないことを我々は見てきた。思考は、その実際の過程と帰結において、「そのもの」と「何」との二元論を越えることはできない。思考がこの二元論を越えることになんの意味もなく、思考はそれに満足し、より以上のものになることを望まないと言っているのではない。しかし、思考の完成を判断だとすると、いかなる判断でも主語と述語が同一であることはない、と言っているのである。あらゆる判断において、本当の主語とは実在であり、それは述語を越え、述語は実在の形容詞である。この区別を越えようと望むことは、思考にとって自殺的だと論じてみようと思う。既に見たように、判断においては、常に、事実と真理の、観念と実在の区別がある。真理と思考は事物そのものではなく、事物に関するものでしかない。思考は主語の観念的内容を述語とするが、存在と意味とは必然的に分かれるものなので、観念は事実と同じではない。また、主語は述語となる単なる「何」でも、他のどんな「何」でもない。たとえ、二つの側面を含み、主語に観念的な性格を述語づける全体を取り上げることを提案してみても我々の助けとはならないだろう。もし主語が述語と同一であるなら、なぜ我々は判断で手間取ることがあろう。しかし、もし同一でないなら、その相違は何で、どうなっているのだろうか。判断などまったく存在せず、思考を欠いた考える振りだけがあるのか、判断が存在し、その主語は述語以上のものであり、「そのもの」は単なる「何」を越えているのか、そのどちらかである。繰り返すことになるが、主語は決して<単なる>実在や、性格を欠いたむき出しの存在ではない。主語が、述語によって定められていない不特定の内容をもっていることは間違いない。判断は複雑な全体の差異化であり、常に分析と総合とを含んでいるからである。それは具体的なものからある要素を切り離し、元に戻す。この具体的な必然性は、単なる要素よりも豊かなものである。しかし、それはここでの問題ではない。問題は、何事かを述べている判断においてはいつでも、述語には欠けている存在の側面が主語にはないのかどうか、ということにある。この問題に肯定的に答えねばならないのは明らかなように思われる。思考において主語が思考を完全に越えてしまうことがあり得ないとすると、より正確に問うてみなければならない。「部分的に越えている」というのは、「部分的には越えていない」ことを意味するからである。いるいないは別として、本当の問題を思い返してみなければならない。私は実在が思考の対象<である>ことを否定しない。それ<だけ>だということを否定するだけである。思考とその対象との区別に留まることはさらなる問題を引き起こすことになるが、それはすぐ後で立ち返ることとしよう。しかし、実在が思考の内部に収まるという主張が、実在には思考の対象を越えるものがなにも存在しないことを意味すると認めるなら、あなたの立場は維持することができない。どんな判断でも好きなだけ反省し、望むがままに主語を操作して、(やり終えたところで)実在についての判断をつくってみるがいい。その結果、思考の内容を越えたところに真であり、理解され尽くさないような主語を発見できないとしてみよう。そのとき、思考の対象は最終的には観念的で、存在を含んでいるような観念は存在しないということを見いだすこととなろう。実際の主語の「そのもの」は単なる観念ではないなにか、真理とは異なるなにか、思考とは異なったものを生みだすなにかを与え続けるだろうし、それがなければ、思考を完成させたことにならない。
「しかし」と答えが返ってくるかも知れない、「あなたが語っている思考は完全な思考ではない。思考が完全であれば、主語と述語に不一致は存在しない。内容が自己を述語化し、主語が内容の体系のなかで自己意識を保つ調和のとれた体系、それこそが思考の意味すべきものである。ここでは、存在と性格の分離が完全に癒やされる。そうした完成が現実のものではないにしても、可能であり、可能性があれば十分である」のだと。しかし、実際に意味がないのであれば、可能でさえないと私は主張しなければならない。再び、先に挙げたジレンマを述べねばならないだろう。判断が存在しなければ、思考は存在しない。差異が存在しなければ、判断も、いかなる自己意識も存在しない、と。そして、差異が存在するなら、主語は述語となる内容を越えたものである。