ブラッドリー『仮象と実在』 89

    ... (思考の他者が存在すると言えるだろうか。)

 

 読者は、単なる思考があらゆるものを含むとは誰も信じないことには同意してくれるだろう。困難なのはこの主張を<維持し続ける>ことにある。哲学において我々が考えねばならないのが、どうやって自己矛盾なしに思考を超越することが可能であるかにしてもである。理論はあらゆるものを反省し、それについて発言することができ、反省することはそれを含むことである。それゆえ、思考において他者を保持することは、同時に他者性を破壊することであり、自己矛盾である。思考が実在を完全にその限界内に収めることで我々を満足させることはできないと認めるにしても、我々が考えている限り、そうしたことは無視しなければならないと言われるかもしれない。問題は、それゆえ、哲学は単なる懐疑主義に終わってしまうのかどうかにある--つまり、否定と肯定とが一緒になることで。この問題は重大であり、解決策を示してみよう。

 

 我々は単なる思考以上の他者をもっている。どういった意味でこう主張されるのだろうか。思考は判断であり、述語は決して主語と同一ではないと我々は言った。主語は「これ」として現前する実在だからである(<単なる>「これ」と言ってはならない)。現前から「これ性」の性格や込み入った関係性を抽出することができる。また、現前の特徴をも抽出することができる。それらについて、観念をつくることができ(1)、考えることのできないものは存在しない。しかし、こうした観念は述語づけた主語と同一ではない。主語について考えることはできるが、それを取り除いたり、思考内容と交換することはできない。別の言葉で言えば、実際において、思考は常に他者に基づき、他者を要求しているように思われる。

 

(1)『論理学原理』64-69ページ。

 

 問題なのは、これが自己矛盾に至るかどうかである。もし思考が思考対象として現実的でも可能でもない対象を内容として主張するなら、私の判断では、この主張が自己矛盾なのは明らかである。しかし、私の主張する他者は、そうした内容でも、「なに」から切り離されたものでも、知性の外側に存在するものでもない。あらゆるもの、あらゆる意志と感じとが思考の対象であり、理解可能なものと呼ばれねばならない。(1)それは確かである、しかし、そうだとすると、他者はどうなるのだろうか。もし単なる「これ」に立ち返ったとしても、これ性そのものが思考によって区別されたものである。我々はこの難点に直面する必要がある。他者が存在するなら、なにかでなければならない。なにものでもないなら、存在しないのは確かである。

 

(1)この点については以下の第十九章、二十六章を参照。