ブラッドリー『仮象と実在』 90

  ... (他者は思考自体が望み、含むものであるなら存在すると言える。その事例。)

 

 実際の判断を取上げ、他者を見いだすという視点でその主語を調べてみよう。ここにおいて、我々はすぐさま問題の種に出くわす。常に述語よりも現前する主語により多くの内容があり、この過剰な内容の他に主語がなにを有しているのか理解が困難である。しかしながら、このことは抜きにして、我々は主語に二つの特殊な性格を見いだすことができる。第一に(a)感覚的な無限であり、(b)第二に、その直接性である。

 

 (a)現前する主語は際限のない細部をもっている。このことによって、その数が実際に有限を越えるといっているわけではない。細部は常にそれ自体を越え、外にあるなにかに無限に関係していくと言っているのである。(1)その内容には、その内容だけには止まらない関係が含まれている。それゆえ、その存在は我々の得ることのできるものだけで汲みつくされることはない。喩えを使うとすると、それは常に別の存在を含む破れ掛けたぼろの切れ端をもち、それなしでは存在しないのである。かくして、主語の内容は包括的な全体に向けて奮闘するが成功することはないと言える。ところで、述語は無際限性から自由なわけではない。抽象され限定された内容は、必然的に自らを越えた関係に依存しているからである。しかし、それは主語にある感覚され必須のものである細部を欠いている。現実的で非限定的な文脈をもつものとして与えられているのではない。かくして、表向きには、述語は無際限性と敵対するのである。

 

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 (b)これが一つの差異であるが、第二に直接性がある。主語は単一の自律的存在としての性格を主張する。「なに」と「これ」とは切り離されたものではなく、内容とともに統一的な全体を形づくっている。「なに」は「これ」と隔てられたものではなく、事実から真実に変わる。それは別の「これ」、あるいは自身の形容として述語化されることはない。この直接性は明らかに無際限性と一致しない。真実は、そのそれぞれが個別性の不完全なあらわれである。(1)しかし、主語がこうした相容れない特徴をもっているのは確かであり、述語もまたそれなしでおれないことは同様である。述語もまた、異なった道筋からであるが、個別性を求めているからである。

 

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 さて、主語には述語にはないこうした二つの性格があり、思考が述語と主語とを分け隔てるものを取り除くことを望むとするなら――ここで我々は他者の本性を認め始めることになる。同時に他者性を根絶するために必要なものをも見ることができる。主語と述語はどちらも修正を受けねばならない。述語の理想的な内容は、直接的な個別性と整合性をもっていなければならない。そして、主語の方もまた、自身と整合性をもったものに変化しなければならない。自律的な存在とならねばならず、それは包括的な個物を意味する。しかし、こうした修正は不可能である。主語は判断に合格しなければならず、それは相関的な形式に感染することである。独立と直接性はその内容によっては保持されない。それゆえ、自己主張が試みられることでこの内容は主語を実際の限界を超えて駆り立て、無限で汲みつくすことのできない過程を得ることになる。かくして、主語を吸収しようとする思考の試みは失敗するに違いない。失敗するのは、内容をすべて含み汲みつくすように主語を修正できないからである。第二に、自らを修正することができないために思考は失敗する。<事実上不可能な手段によって>汲みつくされた内容が述語とされるとしても、その述語は直接性を手に入れることはできないからである。この二つの点についてもう少し述べよう。

 

 最初に、主語が現前しているとしよう。我々がそれを対象とする限り、それは混乱した全体であり、諸性質と諸関係の寄せ集めである。思考はこの寄せ集めを一つの体系に変えようとする。しかし、この主語を理解するためには、それを時間と空間の外に持ちだすことになる。他方、外的な関係は際限がなく、その本性上終わることはあり得ない。そのすべてを汲みつくすことは実際的でないだけでなく、本質的に不可能である。こうした障害だけでも十分だが、それですべてではない。最初は諸関係の確かな行き止まりと捉えていた関係の内側に無限の過程が生じる。理解するためには、終点から区別せざるを得ず、区別を経ないものは決して得ることはない。あるいは難点をこう言い換えることもできる。我々は自明で、自律的かつそれ以上の考察を要求しないような諸関係の項全体を得ることもできないし、かといって、区別をし始めると、関係と項との関係への際限のない追求を避けられないのである。(1)

 

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 かくして、思考は調和をもった体系として内容を得ることはできない。次に、もしそれが得られたとしても、その体系は主語では<ない>だろう。諸関係の迷路、回り続けるしかない迷路か、あるいは関係を完全に失うことになろう。第一に、実在と真理とを区別することは不可能な過程であるのは確かである。それは物質的なものがすべて一度にあらわれ、更に主語と述語のいかなる違いをも完全に抑圧することによってのみ可能だからである。しかし、こうした方法で思考が直接的になるなら、それは自らの性格を失ってしまうだろう。諸関係の体系ではもはやなくなり、個別の経験となるだろう。確かに他者は吸収されるかもしれないが、思考自体もまた他者に呑み込まれ、分解されるだろう。

 

 思考の相関的な内容は決して、あらわれとしての主語であろうと、実際の主語であろうと、主語と同じではあり得ない。現前する実在はその本性に適した形で思考に取上げられることはなく、本性は思考を越えた所で他者として現れるに違いない。最終的に我々の問題に解決をもたらす見方に従えば、その本性は思考が自らに欲する本性だということになる。それは思考がもちたいと望む性格であり、そのすべての側面は思考に既に存在しているのだが、不完全な形でなのである。我々の主要な結論は簡単に言って次のようになる。真理の探究を満足させる目的は実在のもつ特徴を得ることで正当なものとなる。直接的で、自律的、包括的な個別性でなければならないだろう。しかし、この完成に達することで、達しようとする行為において、思考は自身の性格を失う。思考はそうした個別性を望み、まさしく目指す所でもある。しかし、個別性は、諸関係に止まる限り得ることのできないものなのである。

 

 まだ問題の解決にはほど遠いと言われるかもしれない。思考がまったく異質な完成を求めるという事実は、まさしく古くからの難問である。もし思考が望むなら、それは他者ではない、というのも我々は知っているものだけを欲するからである。それゆえ、思考の欲望の対象は異質なものではあり得ない。対象となるのは、かくして、異質なものでは<ない>。しかし、我々はこうした表面的なジレンマのなかに既に入り込んでいる。思考は実在をつくりだす内容性格を欲する。それがもし実現されれば、単なる思考は破壊されるだろう。それらは思考を越えた他者であるからである。しかし、にもかかわらず、思考がそれらを望むことができるのは、内容が不完全な形であるからである。存在するものの完成を望むことに矛盾はない。ここに我々の難問の解決がある。

*1:(1)この感覚される「無限」は有限と同じであり、我々の見ているのは本質において「理念」である。

*2:(1)第十九章および二十四章の説と比較せよ。

*3:(1)このことについては、第三章参照。