ブラッドリー『仮象と実在』 91

      ... (相関的な形式はそれを越えた完成形を含んでいる。)

 

 相関的な形式は思考がよって立ち、発展するための妥協である。全体性を破壊する差異を結びつけようとする試みである。(1)潜在的な同一性によって共存を強いられる差異、多数性と統一との妥協――それが関係の本質である。しかし、差異自体は関係のなかに分解され得ないために、独立したままに止まる。というのも、もし分解されてしまったら、滅びてしまうだろうし、関係もそれとともに滅びてしまうだろう。或は、別の言い方をすると、その顕著な多数性は統一と調和しないままに止まり、関係のなかで無限の過程を経ることになろう。他方、関係は関係する項を越えては存在しない。存在するとなると、新たな項が生じ、散乱が拡大するだろう。しかし、項のなかに消え去ることもあり得ない。そうだとしたら、共通の統一と関係はどこに行ってしまうだろう。その場合、関係はなくばらばらになるだけだろう。かくして、関係を見て取る知覚の全体は、様々な性格を一緒にする。直接性と自律性を特徴としてもつ。各項は与えられているが、直接性や自律性によって構成されているのではない。また、多数性も有している。そして、基本的な全体をあらわすものとして、包括的な統一の性格をもつ――しかしながら、差異によって構成された統一ではなく、外側からつけ加えられた統一である。こうした願望に反して、際限のない無限性をもっている。こうした無限性はまさしく実際的な妥協の結果である。思考は、こうした特徴を保ちながら、それを調和に導こうとする。要素の間に争いのない、包括的な全体、自律的な全体に従属する要素を求める。それゆえ、統一という側面、多数性という側面、またその両者が一つになったものも、思考と真に異質なものではない。思考が全体を望み、すべてを包含し、不調和を含みそれに勝るものであろうとするとき、異質なものは存在しない。しかし、他方、こうした完成は、既に見たように、破滅的なものである。こうした結末は、はっきりと思考を終わりに導くだろう。観念的な内容を実在そのもの<である>形式のなかに持ち込み、単なる真理、単なる思考は滅びてしまうのは確かである。思考は、その性格の全体が異なった特徴として既に所持しているものを対象のなかにもちたいと望んでいる。思考は、観念はもっているにしても、そうした特徴を満足がいくように結びつけることはできないし、完全な結びつきの部分的な経験でさえ得ることはできない。対象が完全なものとなったら、それはすぐさま<実在>となるだろうが、すぐさま対象であることを止めることとなろう。思考を越えた思考の完成は永遠に他者に止まる。思考は、関係によるすべての性格を含む直接的な感じのような形で、理解の観念を形成することはできる。思考は、目標に達するためには諸関係を越えねばならないことは理解できる。だが、その本性において、他の手段を見いだすことはないのである。それゆえ、本性の関係に関する部分は融合され、どうにかしてその他の側面を含まねばならないことになる。そうした融合は思考を失わせ、その固有な部分を超越させることとなろう。この融合の性質を思考は一般的に漠然と捉えることはできるが、詳細において捉えることはできないのである。なぜ詳細な把握が不可能であるか見ることができる。このように予想される自己超越が他者<であり>、しかし、他者は自己矛盾では<ない>と主張されるのである。

 

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 それゆえ、絶対において、思考はその他者を矛盾なく見いだすことができる。実在の全体は考えだされた対象となるだろうが、考えだされたものに単なる思考は吸収される。この同じ実在が完全に満足される感じとなるだろう。その直接的な経験において、根本において感じていた全体がばらばらになることで失っていた特徴を利息を付けて取り戻すことになる。我々は直接性と強い単純な理解をもち、もはや不整合によって無限の退行に追いやられることはない。そして、再び、意図されたものである限り、意志作用は我々の絶対となる。ここで我々は観念と実在の同一に行き着き、その要素を分断するには貧弱すぎるのではなく、豊かすぎるからである。感じ、思考、意志作用はそれぞれより高次のものを予想させる欠点をもっている。しかし、この高次の統一においては、断片的なものはすべて失われる。それぞれの側面が対立しているように思われるものと混じり合い、この融合の産物が豊かさを保っているからである。人間としての観点から言うと、一つの実在は、完全に満足のいくものではないある形式、ある側面として存在している。そのすべての性質を明るみにだすことは、数多くの差異のなかに身を沈めることでもある。そのそれぞれにおいて、その存在が自己の限界を破り、他の自己と混じり合うことによってのみ到達される絶対的な自己実現が望まれている。他者との融合を経て完成のための要素を求めることは自己矛盾ではない。むしろ、そのままにしておいたら自己矛盾に固定してしまうであろう現在の不整合を取り除こうとする努力である。

*1:(1)この点については第三章を見よ。